施本文庫

「1」ってなに?

生きるためのたったひとつ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

心に毒を盛らない

心に悩み、怒り、嫉妬などがあると、心だけではなく、身体も壊れます。心に悩みやストレスがある時、いくらご馳走を食べても、身体は栄養を正しく分解しないのです。コレステロールばかり作って、太らせるのです。逆に、心穏やかで楽しく生きている人が粗末なものを食べても、なんのこともないのです。身体は栄養を正しく吸収して、分解してくれます。

だから、栄養学の知識で言うことと実際は違います。「一日に必ず何カロリー摂らなくてはいけないのだ」と言われて、食べたところで、もしかしたら食べ過ぎになるかもしれません。あるいは、足らないかもしれません。そんな決まった計算はできませんよ。それぞれの人にどれぐらいカロリーが必要かということは、その一人ひとりの生き方によるのです。そして、人の感情の流れも、生き方も、定まっていないでしょう。同じ人がある日はものすごく仕事をしてたくさん食べたくなるし、他の日にはさっぱり食べる気にならないとか、日によっても変わります。しかし、知識で食べると食べるものと量が定まってしまうのです。現実にそぐわず、実践的ではないのです。

そういうことで、私たちは身体の栄養・食べ物のことは放っておいて、「心に必要な栄養は何なのか」と知る必要があります。それは同時に、「心にとって毒とは何なのか」と知ることにもなります。
怒りとか嫉妬とか憎しみとか、そういうものは、心にすごく毒なのです。でも人間はそんなことも知らないで、毒ばかり心に与え続けている。しかも、毒を与えているにも関わらず幸せにもなりたい、と思っているのです。これは相当、無理な願望でしょう。そのうえ、「私は全然幸せにならないじゃないか」と腹を立てて、文句を言ったりもする。そうすれば、心にますます毒を入れることになります。

幸せを決めるのは物ではない

私たちは、幸せというのは外にあるものと思っています。だから「ダイヤの指輪を持っているから私は幸せだ」とか思ったりするのですが、そんなのは全然成り立ちません。ダイヤといっても単なる石でしょう。ガラスとどう違うのか、わかりませんね。しかし、高いお金を払ってダイヤの指輪をつけたら、自分が心で喜ぶのです。実際にはその指輪はなんの役にも立たないのに。だから喜びというのは、心にあるのです。幸せは、心が感じるのです。

もしある人が指輪をはずして、「もう私はなにもつけてないんだ。気楽だ」と、ダイヤの指輪をつけていたときと同じくらいの喜びを感じることができれば、お金がなくても、けっこう人生はやっていけますね。しかし、我々は物に依存しているのだから、「家がなければ」「土地がなければ」「ブランドの服がなければ」「外車を乗り回すことができなければ」とか、「あれがなければ」「これがなければ」と、なんの意味もない幸せの定義を持っているのです。しかし実際には、外車を持っている人にも不幸な人がいる。自転車すら持ってない人が、楽しく幸福でいる場合もある。それだったら、話にならないでしょう。立派な家に住んでいても、悩みに悩んで暮らしている人もいるし、ただちょっとしたところに住んでいるのだけれど、すごく気持ちよく楽しく生活している人もいるのです。

だから、物は幸福を決めません。心が決めるのです。
その心に毒があると、頭がおかしくなって、地球まで破壊するのです。
金持ちが、世界のありったけの金やらプラチナやらダイヤやらを自分のものにしようとする。そうすると、他の人々には手に入らなくなってしまう。そういう貴金属や宝石は、装飾品としてだけでなく、部品を作ったり道具を作ったりするときにも必要なのです。ダイヤというのはとにかく硬くて、いろいろな仕事に使われるものなのです。だから、指にはめたりなんかしてはもったいないと思います。ダイヤでいろんな機械を磨いたり、カットすることに使ったりします。そういうことに欠かせない物質なのです。ダイヤが足りなくなるから、工場で人工ダイヤを作ったりする必要まで出てくるのです。

私たちは、地球まで破壊して、ものを集めてものを食いつぶして、それでも誰も幸せになれない。いくらお金があっても、幸せになれない。不安で生きていなければならないのです。

そういうことで、おにぎり一個食べて最高に幸せを感じる人もいるし、ご馳走を食べなくては幸せを感じない人もいる。問題は、心にあるのです。
この、心にある問題を解決したら、心に本当に栄養を与えてあげれば、心で究極の幸福を感じるようになるのです。

心の栄養は慈悲

仏教には「慈悲の冥想」があります。慈悲の冥想をしっかりやって、慈悲の気持ちがどんどん身についていくと、おのずから喜びが生まれてくるのです。怒りが消えてしまうのです。どんな生命を見ても、なんとなく楽しくなるのです。「ああ、イヤだ」というような気持ちは生まれてこないのです。だから、幸福なのです。

今ちょっと、鶏の声とか聴こえてきましたけど、聴いただけで、私は気分がよかったのです。自分のお寺でも鶏を一羽飼っています。ものすごく大きな声で、四時半ぐらいに鳴き出します。その声が、またすごく響くのです。小さな身体で力いっぱい鳴くと、こちらも気分がいいのです。
それが、こちらがわがままで怒りの心だと、「うるさいな。いいかげんに鳴きやんだらどうだ。寝ていられない」とか言いたくなります。しかし、鶏もいったん鳴き出したら、やめませんね。七時半まで鳴くのです。

慈悲は心の解毒剤

慈悲が心にあれば、「うるさいな」などという怒りがなくなる。嫉妬もできなくなる。悩む必要もなくなる。どんな生命を見ても、喜びを感じる。それで心の毒がなくなるのです。

そういうことで、すべての生命に、と言っても特に人間に、慈悲が欠かせないのです。他の生命も、生きているから慈悲は欠かせないことになりますが、動物などは人間の話は聴いていないから、仕方がありません。人間にしても、仏教の話になると、あまり聴きたがりません。でもとにかく、仏教を聴くチャンスを得た人々に、お釈迦さまは究極な幸福に至る道を教えたのです。

我々は心に、ずーっと毒ばかり入れているのです、心に毒を入れているのだから、食べるご飯も毒になっているのです。わざわざ外国の乳製品に毒が入ったという話ではないのです。皆様が日本でとても丁寧に、品質基準を守って作ったものであっても、手に入れて摂取すると、結局は毒になってしまうのです。摂取する人の心が、煩悩で汚れているからです。

ですから、幸福を目指す人々は、心に毒を注入してはならないのです。怒り、嫉妬、わがまま、傲慢、自我、エゴなどの、毒を注入してはならないのです。その代わりに、心に一切の生命への慈しみ、やさしさを入れておくのです。それで、心は本当に、究極的に、幸福を感じ始めるのです。

何があっても心に喜びを

ブッダの教えは、幸福になる方法です。それは、「あの世で」ということではなくて、「今、ここで、幸福になります」ということです。「今、楽しく生きていられますよ。何がなくても、どんなことがあっても、自分の楽しさはなくならないのだ」ということです。だって、心が楽しいのですから。

「どんな生命も、栄養という一つのものを取り入れて生きています」という根本的な、なぞなぞみたいな答えで、「だから、本当の栄養を取り入れてください。心が怒りやエゴで毒に汚染されないように。すべての生命に対する慈悲の心を作って、心と身体を栄養いっぱいにしてあげてください」と、子供のソーパーカ長老が、ブッダの教えをみごとに語っているのです。

たとえば、「自分はすごく足が丈夫で、速く走れるのだ」と、スポーツ大会で何度も優勝するような人がいるでしょう。そんな人がもし事故に遭って足を切断するはめになったら、どうしますか? それから、人生が不幸になるでしょう。どんな体力自慢の人でも、スポーツマンとかは、もう三十歳とか四十歳になる前にやめなくてはならないでしょう。かわいそうに。それで、それからの人生が不幸になってしまいますね。
身体が壊れて、スポーツ人生を止めることになっても、幸福になることは止めてはならないのです。たとえ、足がなくなっても、ブッダの教えどおりに、心によい栄養を与えておけば、心の幸福はなくならないのです。全財産がなくなっても、「関係ない、どうってことない」という感じで、心の喜びはなくならないのです。財産は喜ぶためにあるのです。もし財産がなくても、喜びがあるならば、なんの問題もないのです。

私たちは勘違いしているのです。みんなが思っている「お金がほしい」というのは、ただの勘違いなのです。「お金がほし」くはないのです。お金があると、楽しい。その「楽しい」が、ほしいのです。「私はこの本がほしい」などと言ったりするでしょう。あれはウソです。本なんかほしくないのです。その本を読むと、楽しいのです。ほしいのはそれ、「楽しい」なのです。楽しくなければ、本なんか読みません。捨ててしまいます。

なにもかも、そういう勘違いです。「おいしいものを食べたいなあ」とか「旅行したいなあ」とか、あれこれと幸福の手段を考えていますが、それは全部、勘違いなのです。本当は、心が喜びを感じたいだけなのです。それにしても、喜ぶために物に依存すると、きりがないのです。

生命に必要なたった一つは慈悲の心

ですから、「心の毒を全部抜いて、幸福の思考を注入してください」ということが、お釈迦さまの教えなのです。今・ここで、自分が幸せになるために、心にさっと、すべての生命に対する慈悲の栄養を入れてください。それがそのまま怒りや嫉妬の解毒剤になり、心は栄養に満たされて、何がなくても、すごく幸福になります。その心の栄養が、生命にとって必要不可欠なたった「一つ」なのです。

そういうふうに、今・ここから、生き方を改良するように頑張ってみましょう。自分と、自分の親しい人々の幸せのために、「生きとし生けるものが幸せでありますように」と願って、慈悲の心を作って生きていきましょう。

どうもありがとうございました。

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この施本のデータ

「1」ってなに?
生きるためのたったひとつ 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2009年5月8日