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常に観察すべき五つの真理

Abhiṇhapaccavekkhitabbaṭhānasuttaṃ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

常に観察すべき五つの真理

3章 解脱への道を開く

仏陀の道を歩む人

これまでのセクションでは、「女性も男性も在家も出家も、五つの対象を常に観察すべきである」ということで、すべての人を対象にして説かれていました。

次のセクションでは「ariyasāvako」(アリヤサーワコー)と記されてあり、いわゆる「仏陀の道を歩む人」にたいして説かれた教えになっています。前のセクションよりもかなりレベルが上がって、次元が高くなるのです。

仏陀の道を歩む仏弟子は、観察の仕方が、俗世間の観察の仕方と大きく異なります。観察の対象はどちらも同じ五つの項目だけですが、その観察の仕方が異なるのです。

「老い」は普遍的なもの

俗世間では「私は老いるものであり、老いを乗り越えることはできない」と自分だけ観察することを教えていましたが、仏陀の道を歩む聖なる仏弟子は次のように観察します。

Sa kho so, bhikkhave, ariyasāvako iti paṭisañcikkhati – ‘na kho ahaññeveko jarādhammo jaraṃ anatīto, atha kho yāvatā sattānaṃ āgati gati cuti upapatti sabbe sattā jarādhammā jaraṃ anatītā’ti.

Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato maggo sañjāyati. So taṃ maggaṃ āsevati bhāveti bahulīkaroti. Tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahulīkaroto saṃyojanāni sabbaso pahīyanti anusayā byantīhonti.

仏陀の道を歩む仏弟子は、「私だけが老いるもので、老いを乗り越えていない、のではない。一切の生命が老いるもので、老いを乗り越えていないのである」と常に観察すべきである。このように観察するなら、道が現れて、道を実践する。道を実践すれば、煩悩が消え、潜在煩悩も消える。

俗世間のレベルよりもかなりスケールが大きくなって、「自分だけでなく、すべての生命は老いるものである」と観察します。

しかし、これを観察するには、まず「私は老いるものだ」と自分自身のことを観察しなければなりません。自分自身のことを観察しない人に、このレベルを観察することはできないのです。したがって、第一番目のステージ(自分を観察するレベル)を実践した人が、第二番目のステージへと進み、「老いるのは自分だけではない。あの人もこの人も誰もがみんな、一切の生命が老いるんだ」と観察すると、智慧のレベルがものすごく高くなるのです。

宇宙にはさまざまな種類の生命が生存していますが、どんな生命にも「老いる」という性質が備わっています。神々も年をとります。多くの方は、神々は老いることなく、ずっと幸福に生きていると思っているようですが、そうではなく神々も老いるのです。

人間の場合は年をとったらどうなるかといいますと、背骨が曲がったり、足腰が弱くなったり、膝が痛い、腰が痛いなど、身体のあちこちが痛くなったりします。そうなるのは、身体を持っているからなのです。

しかし、お年寄りの方すべてがそうなるわけではありません。背筋をピンと伸ばしている方もいらっしゃいますし、足腰が痛くならない方もいらっしゃいます。リウマチにならない方もいらっしゃいますし、身体がやわらかい方もいらっしゃいます。

でも、どんなお年寄りにも必ずあることがあります。それは、若いときよりも人生がおもしろくなくなるということです。音楽を聞いて楽しいとか、おいしいものを食べて楽しいとか、旅行をして楽しいなど、楽しいと思うことがだんだん減っていくのです。若いときほど物事がおもしろくなくなっていきます。これは年をとったときの精神的な状態です。たとえ肉体が若く見えたとしても、心は大人というか、もう老人なのです。もう一度おもしろくなりましょうということは無理な話で、後戻りはできません。どうにもならないのです。

たとえば子供のとき、テレビの幼児向け番組を見てすごく喜んで、大人になってからあの気持ちに戻ろうと思っても、もうその状態に戻ることはできません。逆に、戻れるのはちょっと異常ではないかと思います。そんなのおもしろくない、というのが正常な大人の頭でしょう。

これは年をとったときの精神的な状況です。そんなのはもう結構、という気持ちです。周りの人から「映画を観に行きましょう」とか「旅行に行きましょう」などと誘われても、「そんなのつまらない」「めんどうだ」ということで、精神的に老いるのです。

神々の場合は、まさにこれです。天界がおもしろくなくなってしまうのです。それで服装や髪の毛が乱れたりして、パッと消えるのです。これが神々にとっての「死」です。神々も老いや死からは逃れることができません。

そこで、聖なる仏弟子は、自分だけを観察するのではなく、「すべての生命は老いるものである」と観察します。あの人もこの人も、あの生命もこの生命も、生命は誰でも老いるものである。老いを乗り越えていません」と常に観察するのです。

このように、「一切の生命は誰でも老いるものである」ということを常に観察していると、その人は次のステージへ進み、「ではどうすべきか」ということが見えてきます。そして「道」(生き方)を発見します。「道」には「仏弟子の道」と「俗世間の道」があり、この二つは次元が異なります。

俗世間の道は、ただ単に「安全な道があります」ということだけで、あくまでも輪廻の中での安全な道ということにすぎません。その道を歩めば、確かに幸福で安全に生きることはできるでしょう。しかし、輪廻の苦を完全に乗り越えることはできないのです。

他方、仏弟子の道、いわゆる「老いるのは自分だけではなく、すべての生命が老いるのだ」と観察を続けていると、別の次元がその上に見えてきます。この観察を続けることによって、煩悩がすべて消えていくのです。表面的な煩悩も、潜在的な煩悩も、一切の煩悩が消えていきます。潜在煩悩というのは、今は現れていませんが、もしかすると将来現れるかもしれない煩悩のことです。たとえば、私たちは今生で他の人を殺したことはないと思います。しかし、心には「怒り」があります。ですから条件が揃ったら、もしかすると他の人を殺してしまう可能性もあるのです。潜在煩悩とは、今は現れていませんが、もしかすると現れる可能性がある煩悩のことです。

そこで「老いるのは自分だけではなく、すべての生命が老いるものである」と観察を続けていると、この潜在煩悩まで消えていきます。最終的には究極の覚りに到達し、輪廻の苦を乗り越えることができるのです。

「病気」は普遍的なもの

Sa kho so, bhikkhave, ariyasāvako iti paṭisañcikkhati – ‘na kho ahaññeveko jarādhammo jaraṃ anatīto, atha kho yāvatā sattānaṃ āgati gati cuti upapatti sabbe sattā jarādhammā jaraṃ anatītā’ti.

Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato maggo sañjāyati. So taṃ maggaṃ āsevati bhāveti bahulīkaroti. Tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahulīkaroto saṃyojanāni sabbaso pahīyanti anusayā byantīhonti.

仏陀の道を歩む仏弟子は、「私だけが病気になるもので、病気を乗り越えていない、のではない。一切の生命が病気になるもので、病気を乗り越えていない」と常に観察すべきである。このように観察するなら、道が現れて、道を実践する。道を実践すれば、煩悩が消え、潜在煩悩も消える。

そこで「あの人もこの人も、この人もあの人も……誰もがみんな病気になる性質のものである。すべての生命が病気になる性質を持っている」と観察を続けているとどうなるでしょうか? 心の状況が変わってくるのです。

どのように変わってくるのかといいますと、その人に「歩むべき道」が見えてきます。「歩むべき道」が見えた人は、自ずとその道を歩むようになります。その道を歩むと、心の煩悩が徐々に消えていき、最終的にはすべて消えるのです。

ここでいう「道」というのは八正道のことで、いわゆる解脱を目指して修行する人に現れる道のことです。この道は特別な道で、この道に入ったら、もう逆戻りすることはありません。サッと解脱する、そういう聖なる道なのです。

私たちがそこそこやっている八正道というものは、ただ「正しい道」というだけで、その道を歩めば、確かに輪廻の中で間違いなく失敗なく地獄に落ちることなく、安全で穏やかに幸せに生きていられるでしょう。しかし、それは輪廻の中で延々と生き続けるだけであり、輪廻そのものから解脱することはむずかしいのです。

他方、「聖なる仏弟子(アリヤサーワコー)の道」が現れたら、サッと解脱します。この道は、逆戻りすることはありません。これは、究極の覚りに達することを目的にした道、いわゆる「解脱の道」なのです。

お釈迦様の教えでは、一般社会の人に教えられた道と、仏陀の道を歩む人に教えられた道と、この二つを区別しています。アビダルマでも註釈書でも区別しているのです。

そこで、仏教徒でなくても実践できる仏陀の教えがあり、また仏教徒でないと実践できない仏陀の教えがあります。それは何かといいますと、結局は同じもので、「八正道」です。仏教徒でなくても実践できるのが八正道であり、仏教徒にしか実践できないのも八正道です。何が違うのかといいますと、そのレベルです。仏陀の道を歩む人の道のほうは、一般社会の人の道よりもかなりレベルが高くなって、「解脱を目指す道」になるのです。

「死」は普遍的なもの

Sa kho so, bhikkhave, ariyasāvako iti paṭisañcikkhati – ‘na kho ahaññeveko jarādhammo jaraṃ anatīto, atha kho yāvatā sattānaṃ āgati gati cuti upapatti sabbe sattā jarādhammā jaraṃ anatītā’ti. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato maggo sañjāyati. So taṃ maggaṃ āsevati bhāveti bahulīkaroti. Tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahulīkaroto saṃyojanāni sabbaso pahīyanti anusayā byantīhonti.

仏陀の道を歩む仏弟子は、「私だけが死ぬもので、死を乗り越えていない、のではない。一切の生命が死ぬもので、死を乗り越えていない」と常に観察すべきである。このように観察するなら、道が現れて、道を実践する。道を実践すれば、煩悩が消え、潜在煩悩も消える。

生命の本質は、「死」です。生きている者なら誰でも「死」という性質が備わっています。そこで、仏陀の道を歩む仏弟子は、常に「一切の生命は死ぬものであり、死を乗り越えることはできない」ということを常に念頭において生活します。そのように観察を続けていると、「解脱の道」が現れて、煩悩が消えていくのです。

「好きなものから離れること」は普遍的なもの

Sa kho so, bhikkhave, ariyasāvako iti paṭisañcikkhati – ‘na kho ahaññeveko jarādhammo jaraṃ anatīto, atha kho yāvatā sattānaṃ āgati gati cuti upapatti sabbe sattā jarādhammā jaraṃ anat?tā’ti. Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato maggo sañjāyati. So taṃ maggaṃ āsevati bhāveti bahul?karoti. Tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahul?karoto saṃyojanāni sabbaso pahīyanti anusayā byantīhonti.

仏陀の道を歩む仏弟子は、「私の好きなものだけが変化し離れていくのではない。一切の生命の好きなものが変化し離れていくのである」と常に観察すべきである。このように観察するなら、道が現れて、道を実践する。道を実践すれば、煩悩が消え、潜在煩悩も消える。

人間も、神々も、虫も、鳥も、動物も、みんな愛するものに囲まれて生きていますが、残念ながら永遠に一緒にいることはできません。いずれ必ず離れなければならないのです。そこで、このことを常に客観的に観察していると、「道」が現れて、覚りに達するのです。

「業」は普遍的なもの

Sa kho so, bhikkhave, ariyasāvako iti paṭisañcikkhati ? ‘na kho ahaññeveko jarādhammo jaraṃ anatīto, atha kho yāvatā sattānaṃ āgati gati cuti upapatti sabbe sattā jarādhammā jaraṃ anat?tā’ti.

Tassa taṃ ṭhānaṃ abhiṇhaṃ paccavekkhato maggo sañjāyati. So taṃ maggaṃ āsevati bhāveti bahul?karoti. Tassa taṃ maggaṃ āsevato bhāvayato bahul?karoto saṃyojanāni sabbaso pahīyanti anusayā byantīhonti.

仏陀の道を歩む仏弟子は、「私だけが『業で作られ、業を相続し、業から生まれ、業を親族とし、業に依存し、私がする善悪の行為の結果は私が受ける』のではない。一切の生命が『業で作られ、業を相続し、業から生まれ、業を親族とし、業に依存し、私がする善悪の行為の結果は私が受ける』のである」と常に観察すべきである。このように観察するなら、道が現れて、道を実践する。道を実践すれば、煩悩が消え、潜在煩悩も消える。

業のことを理解するのはむずかしいかもしれませんが、「すべての生命は、自分の行為の結果を自分が受ける」と、そのぐらいでも理解するようにしてください。行為の結果は、行為をした本人が受けるのです。たとえば、AさんがBさんを誹謗中傷したなら、その結果はAさんが受けるのであって、CさんやDさんが受けるのではありません。誹謗中傷したAさんが、その結果を受けるのです。これは事実です。

この法則を理解し、また「自分=業」ということを理解する人は、自然に悪行為から離れ、悪いことをしなくなります。

私たちは業を観察しないがために、平気で悪いことをするのです。これは大きな問題です。世の中には法律がたくさんありますが、いくら法律があって、その刑罰がいくら厳しくても、世の中はいっこうによくなりません。世界の国々の中には刑罰が非常に厳しい国もあり、ちょっと悪いことをしただけでも死刑にすることもあります。弁護士が弁護しても、その話しは全く聞こうとしないのです。そこでそこまで厳しいなら、その国では犯罪は起きないはずでしょう。しかし犯罪はいっこうに減らないのです。

これは「業」のことを観察していないからです。「自分の行為の結果は自分が受ける」ということを一人一人が理解するなら、悪行為は自然にできなくなるでしょうし、その結果、社会も自ずと安全で平和になるのです。ですから、お釈迦様は「業のことを観察してください」と教えられたのです。

おわりに

仏教は、このようにして「心の進化」を説いています。老いること、病気になること、死ぬこと、好きなものは変化し離れていくこと、業のこと、この五つの項目を普遍的な事実として常に観察することによって、酔いが醒め、存在にたいする見方が変わり、全く異なる見方が見えてくるのです。「生命」という普遍的な視野で見られるようになります。それだけでも、大きな進化です。私たちの脳細胞では、いまだに自分のことしか考えることができません。小さくて、未熟で、わがままです。その心を、この方法で進化させるのです。

実践方法は、決してむずかしいものではありません。日々私たちがやっているくだらない妄想をやめて、この五つの項目を頭の中で回転させるだけです。そうしていると、心が徐々に清らかになっていき、心に大きな進化が起こるのです。「何を目指し、どう生きるべきか」という道が発見できます。その道をしっかり実践することによって、解脱に達することができるのです。

Byādhidhammā jarādhammā, atho maraṇadhammino;
Yathā dhammā tathā sattā, jigucchanti puthujjanā.
Ahañce taṃ jiguccheyyaṃ, evaṃ dhammesu pāṇisu;
Na metaṃ patirūpassa, mama evaṃ vihārino.
Sohaṃ evaṃ viharanto, ñatvā dhammaṃ nirūpadhiṃ;
Ārogye yobbanasmiñca, jīvitasmiñca ye madā.
Sabbe made abhibhosmi, nekkhammaṃ daṭṭhu khemato;
Tassa me ahu ussāho, nibbānaṃ abhipassato.
Nāhaṃ bhabbo etarahi, kāmāni paṭisevituṃ;
Anivatt bhavissāmi, brahmacariyaparāyaṇo”ti.

病と老の性質あり、死の性質もある。
これが一切生命の法である。
世間の人はこれを厭い嫌う。
世間の人のように厭い嫌うことは法を観察する我には、相応しくない。
我、常にこの法を思惟し、無執着の真理を知り、健康、若さ、生きることへの酔いが醒める。
一切の酔いから目覚め、離欲こそが安穏であると見、涅槃を目指して精進を起こす。
今の我は、世間の欲に溺れることがない。
還らざる道に入り、修行完成の道に入ったのである。

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常に観察すべき五つの真理
Abhiṇhapaccavekkhitabbaṭhānasuttaṃ 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2011年7月11日
常に観察すべき五つの真理