施本文庫

初期仏教の「女性・男性」論

~女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です~ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

4 男女論から生命論へ

異性は理解できない

女性は必ず男性に不満。しかも、男に女を、女に男を、理解することは無理なのです。世間の夫婦の不満を聞いてみると、奥さんは「自分の気持ちを旦那は全然理解してくれない」と言うでしょう。旦那さんも同じです。「女房はいくつになっても自分の気持ちをわかってくれない」と嘆きます。そうして「お互い、いつか気持ちがわかり合えればいい夫婦になる」と思いながら、いっこうにその日は来ません。なぜならお互いが理解できないからです。お互い、自分の主観で相手の気持ちを妄想して一緒に生きていることしかできません。当然、毎日はトラブルの連続です。

なぜ理解できないのでしょうか。男が思っている女性像があり、その角度で自分の奥さんを見ているからです。奥さんにも、「男性はこうあるべき」という女性側から描いた絵があり、その角度で旦那さんを見ているからです。ですから、お互いに理解できないのです。理解できないのは当然なのです。

男女のイメージのくい違いはどれほどのものか、女性作家が書いている小説と、男性作家が書いている小説を並べて読んでみればわかります。同じようなシーンをどのように書いているのか、比べてみてください。必ず小説で比べてください。ノンフィクションではだめです。女性作家のフィクションと、男性作家のフィクション。比較するのは同じ場面です。恋に落ちる場面、あるいは恋が破れて別れる場面、あるいは性行為の場面とか、同じようなシチュエーションの描写を比較してみてください。ものすごく違います。

女性は、女性の頭にある男性のイメージで演じさせ、男性は、男性が持っている女性のイメージで演じさせるから、見事に違ってくるのです。

「相手を理解している」という誤解

加えて言うなら、自分の中のイメージと実際の異性の実体とのズレで悩むのは女性です。精神的な問題を抱えてカウンセラーを訪ねるのは女性のほうが多いです。悩みごとも、女の人のほうが多いです。それは天職の問題なのです。女性は「育てる」という天職のために、相手のことがわかった気になってしまうのです。

国際的な問題とか戦争とか肉体的なトラブルは、男が起こします。それはすぐに破壊的になって、長続きはしません。対して女性は、戦争のような大事は起こしませんが、二十四時間、何かしらトラブルを起こします。それは、女性の身体・DNAの中に子孫を生んで育てる天職が入っていて、「相手のことはわかっている」という錯覚に陥るからです。だから、世の中でトラブルを起こすのは女性のほうが多いことになってしまうのです。

赤ちゃんが泣いたら、お母さんは「あっ、お腹が空いたんだな」「もう眠たくなっているだろう」と察知して、いろいろ対処します。これは天職ゆえです。「私が泣きやませなくてはいけない、これは私の仕事だ」と、DNAの中にプログラムが入っているのです。赤ちゃんが泣いた、「あ、眠くなっている」と思って寝かそうとする。「もしかするとお腹がすいているのかもしれない」と思って、おっぱいをあげる。……でも、あまり当たってはいないのです。寝かしても寝なかったり、おっぱいをあげても吸わなかったり。合っていないことも多いのですが、合っていないことは認められません。天職としてDNAレベルで責任を持たされているので、「子どもが泣いていることを自分が理解できない」ということは認めるわけにいかないのです。いつでもお母さんは「子どものことならわかっている」という錯覚に陥ります。

そのはたらきが、「お母さん」という枠ではなく「女性」という枠になったとき「人の気持ちなんて、もうすっかりわかっているんだ」という錯覚になります。その錯覚で行動しますから、どこへ行っても、何をやっても、何かしらトラブルが起きます。しかし、男がつくるトラブルほど派手で大きいものではありません。

女性の方々は気をつけたほうがいいです。自分がわかったつもりで夫にいろいろなことをやってあげたり、友達にいろいろなことをやってあげたりしても、結果が逆になる可能性はいくらでもあります。
本当は、この「わかったつもり」を、修行してでも抑えたほうがいいのです。現実には、わが子の気持ちもわかっていないのですから。

他の生命を理解する方法

本当は誰も自分を理解してほしくないのです。男も女も関係ありません。ところが口では「わかってほしい」などと言います。しかし生命は、もともとお互いを理解するのは無理なようにできています。

それでも、いえ、それだからこそ、正しく相手の気持ちを理解することに挑戦するのです。それには生命を「慈しみ」で見るのです。男も女も消してください。人間も動物も消してください。一切が生命である、生き物である、まずそこが必要です。性別意識を控えて、生命は生命として慈しみで見るのです。性別によって生まれる思考・感情などを無視して、生命として共通している思考・気持ち・感情などを観察するのです。「人間」「動物」という枠も取り払って、すべて生命だと見るのです。一切の枠を消してしまいます。消してみると、すべての生命に共通の感情が見えてきます。それが手に取るようにわかったら、苦労なく相手を、ものごとを理解することができます。

具体的な理解の仕方は、まず、自分と同じところ、似ているところを発見します。それから、違っているところを発見します。
これが人の気持ちを理解する方法です。しかし、これは簡単なことではありません。

男・女ではなく、生命として生きる

仏教から見れば、男女平等論が起こることこそおかしな話です。もっと、皆さんが生命論から、男性、女性、人間のことを理解すべきだと思います。
生命論からすれば、女性は支配する側の生命です。ですから、「女性も平等にしてくれ」と叫ぶこと自体が勘違いです。天皇は「私は天皇だ」と叫びませんね。支配者である女性が、なぜ「平等にしてくれ」などと叫ぶのですか。これは現代の世界が西洋文化に制圧されて、強くなり過ぎた女性を抑えているために、女性も自分の責任・天職を忘れているからです。

もし、心から平和を望むなら、豊かさを望むなら、戦争が嫌ならば、女性たちが命令すべきです。「こうしなさい」と、政治をやっている男たちに力強く命令することで、ジワジワと世界は変わっていきます。管理者である女性に強く言われれば、誰も逆らえないのですから。しかし今は、その流れが生まれない環境に覆われています。

人類は平等なのです。しかし、一人ひとりが違うのです。劣等感も、優越感も、それを感じるのはおかしなことです。そういう人は無智なのです。そして、すべての生命に、個人個人にできること、果たさなくてはいけない義務があります。また、「自分にできること、自分にしかできないこと」などもあります。
生命というネットワークの中で、「自分」という一個が自分の役割を果たすべきです。それを目指すならば、「男だから」「女だから」などと言っている場合ではないのです。

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初期仏教の「女性・男性」論
~女性こそ社会の主役、男性は暇な脇役です~ 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2011年