施本文庫

充実感こそ最高の財産

今、この瞬間を生き切ればいい 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

持ちものは「心の輝き」だけ 

ある王様がお釈迦さまにこのように言いました。 
「あなたがたは旅をされていますから安心して住む場所がありません。お寺がない地域では、木下や公園など、どこでも横になって寝ています。毎日おいしいごはんを食べることもしません。着るものも三衣しかない。お金もない。家族もない。何も持っていない。
でもお釈迦さまと、お釈迦さまの弟子たちの顔を見るといつも明るく輝いています。いつもかすかな微笑みがあります。私は国の王ですから、ほかの宗教家たちと話をしたり、説法を聞いたりします。でもみんな顔をこわばらせて、苦しい表情をしているように見えます。緊張して、誰かに脅迫されて修行しているような感じがするのです。その方々とは違って、お釈迦さまとお釈迦さまの弟子たちは、なぜそんなに明るく、気楽で、輝いているのでしょうか?」と。 

お釈迦さまはこのように答えました。 
「私も弟子たちも、心の中には悩みや苦しみが全くないのですよ。期待することも希望することも、しがみついて頑張ることも、心配することも、何もありませんから、心はやすらぎを味わっているのです。だから明るいのです」と。 

我こそ「楽」を味わっている 

お釈迦さまとお釈迦さまの弟子たちがいつも明るく輝いているということは、当時かなりのうわさになりました。ときどき、「あの人たちはただ楽をしているだけだ」と非難されることもありました。 

けれどもお釈迦さまはその言葉に反対しませんでした。それどころか、「そうです。我こそは楽を味わっている。我こそ楽しんでいる」と、堂々とそれを肯定されたのです。宗教家は楽をすべきではない、などと見栄を張ることはありませんでした。
世間の人々に褒められるように認められるようにと、苦行や断食に励むこともしませんし、人々に拝んでほしくて、聖者と呼ばれたいために、何か特別な行をするということもなかったのです。 

ある苦行者が「あなたがたは何の苦行もしない。ただ楽をしているだけではありませんか。楽をしても決して至福は得られません。もしも楽をして至福が得られるならば、コーサラ国王の方がお釈迦さまよりももっと至福を得ていることになります」と非難しました。 

お釈迦さまは「論理的な証拠が何もないのに無責任なことを言ってはいけません」と叱ったのです。そしてその苦行者にこのように訊きました。 

「王様は七日間、体を動かさず、言葉を話さず、すべての思考を停止して、絶対的な至福を感じることができますか?」 
「できません」 
「では六日間できますか?」 
「できません」 
「では五日間できますか?」 
「できません」 
「では四日間できますか?」 
「できません」 
「では一日だけでもできますか?」 
「できません」 

お釈迦さまはこうおっしゃいました。 
「私は、思考や概念がまったく生まれずに、一日でも、二日でも、三日でも、ときどき一週間でも、やすらいだ状態でいることができます。心にかすかな不純物も入らないまま一週間でもいられますよ」と。 

本当の楽を味わっているのは一体誰でしょう? コーサラ国王ですか、お釈迦さまですか? お釈迦さまですね。
コーサラ国王は、確かに物理的な面で贅沢な暮らしをしていましたが、国王という立場上、国を守るという大きな仕事を抱えていました。それに対しお釈迦さまは、何も持たない、概念さえも持たない、という自由を得ていたため、お釈迦さまこそが究極の楽を味わっていた、ということになるのです。 

このことからもわかるように、仏教とは、心の悩み・苦しみをなくすための幸福の教えなんですね。
どんな人でも「明るく生きていたい、楽しく生活したい」と望んでいるでしょう。誰も眉間にしわをよせて、緊張して生きていたくないのです。大人も子供も老人も、年齢に関係なくすべての人間が、「幸せになりたい」と願っています。森の中で原始的な生活をしている原始人も、高層ビルが立ち並ぶ都会で生活している都会人も、どんな人でも、苦しみたくはないのです。気持ちよく明るく楽しく生きていたいのです。
動物も同じですよ。「苦しみたい」と願う動物はいません。みんなやすらぎを探し求めているのです。 

でも残念なことに、私たちにはそれができないのです。「幸せになりたい」というその唯一の希望を叶えることができないでいるのです。
幸せを求めながらも、ずっと苦しみにさいなまれ続けているんですね。私たちはなんという無知な生き方をしているのでしょうか。 

生まれた瞬間から、私たちは様々な希望を持って生きています。その数限りない希望の中で、すべての生命が等しく持っている希望、それが「幸せになりたい」という願いなのです。
しかしその願いはいまだに実現されていません。その根本的な希望を実現できない私たちの生き方は、けっして智慧のある生き方だとは言えないでしょう。 

愚かな自分を超えてゆく 

ですからお釈迦さまの教えは、本来皆「愚か者」というところからはじまるのです。この言葉を聞いて、「なんでそんな失礼なことを言うのか」と腹を立てる人がときどきいます。
その場合、「お釈迦さまはなぜ私たちのことを『愚か者』と言ったのか」と理性的に反論すればいいのです。そうすれば一つひとつ証拠を出して教えることができますからね。
そうやって我の愚かさを順番に直し、智慧を育てていけばいいのです。仏教とは、人間が「愚か者」という状態から「賢者」になるための道です。智慧の人間になるための道なのです。

毎日毎日ほんのわずかでも智慧を開発して、「自分なりによくできました。今はこのぐらい智慧がある。そのぶん人生が楽になりました」とその方向で、究極的な智慧が現れるまで一歩一歩前へ進んでいくことが大切なのです。ここが他の宗教と違うところです。仏教は、死後の約束をして、今という時間を苦労しながら無益に過ごす生き方は教えていません。
死後の幸福ばかり期待して今生を送ろうとすると、死ぬまで苦しむことになりますからね。

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充実感こそ最高の財産
今、この瞬間を生き切ればいい 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月