施本文庫

こころのセキュリティ

爆発寸前のあなたを幸せに導く「日夜の指針」 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

Phandanaṃ(パンダナン) capalaṃ(チャパラン) cittaṃ(チッタン) 
Durakkhaṃ(ドゥラッカン) dunnivārayaṃ(ドゥンニワーラヤン) 
Ujuṃ(ウジュン) karoti(カローティ) medhāvi(メーダーヴィ) 
Usukāro’va(ウスカーローワ) tejanaṃ(テージャナン) 

Dhammapada33 

心は、動揺し、ざわめき、 
守り難く、制し難い。 
英知ある人はこれを直くする。 
――弓矢職人が矢柄を直くするように。 

『法句経』三十三偈 中村元訳 

世の中で最も危ういものは「こころ」です。 
「こころ」は原子爆弾のようなものです。 
その「こころ」を清らかに保ち、 暴走して不幸に陥らないように簡単に守る方法があります。 

第一章 あなたのこころは原子爆弾です

「ご利益系宗教」の罪と罰

仏教はこころを育てることを教える宗教である、ということをテーマにお話ししてみようと考えています。

私は機会があるたびに皆さんにお聞きしているのですが、だいたい皆さんは宗教というものと、こころの関係について、無関心というか、関係のないものだという認識の方が多いようですね。これは、私にはたいへん意外な結果なのです。

そこで、そういう人たちはいったい宗教というものをどんなふうに捉えているのかと聞いてみると、まず、先祖の供養とか葬式を取り仕切ってくれるためにあるという答えが返ってきます。その次に、不幸を招くような悪いものを払拭してくれる、商売繁盛や家内安全などの希望を叶えてくれたり、悪霊を祓ってくれるなどのイメージがあるようです。

このことは、とても矛盾しているように映るのです。というのも、皆さんは宗教というものを一種特別なものとして考えているくせに、それを利用するさいは、それぞれの日常生活に密接に関係していると考えているのですね。結局、人間は宗教を俗的な目的をメインとして捉えているのです。そのあり方は常識ではない、なんというか、超常現象のように思っていながら、なにかのご利益を得るところということになっている。私は、こういう認識で捉えられ、またそういうことを自ら煽っているような宗教を、その教義の別はともかく「ご利益系の宗教」と呼ぶことにしているのです。

理由はどうあろうと、皆さんがたいせつにしている宗教を軽視したり敵対視するような気持ちは毛頭ありません。むしろ、私自身がそういう宗教をできるだけ理解できるようにおもしろい名前をつけて考えたほうがいいのではないかと思ったまでのことです。ところで、そう考えていくと、その「ご利益系の宗教」はほんとうに宗教家の仕事をしているのだろうか、という疑問が起こりはじめたのです。

たとえば、経済の面で考えてみましょう。経済といってもべつに大げさなことではなく、あるお店があってその店にたくさんの客が来てほしいと願う。これは、商売をしていればごくあたりまえの願いですね。お客さんがどんどん来てくれてお店が繁盛すれば自分たちも儲かると願うのは、世間ではふつうの考え方です。そして、そのお店の経営者やら従業員たちがいろいろと考えたりアイデアを出しあったり、あるいは経済的な努力をすることは、そのお店にかかわった人びとの当然の責任であり義務というものでしょう。その結果として、お店にお客さんが来るようになるかもしれないし、あるいはいいアイデアが出ずにお店はつぶれてしまうかもしれません。それは、しかたのないことではないでしょうか。

ところが、どこからかある宗教団体の教祖が招かれてやってきて、そのお店の繁盛や成功を祈って、なにやらありがたい祈禱をしてくれる。一般の常識や知識ではちょっと理解できないような宗教的な儀式を行なう。私はこういうのを見ると、ちょっと不思議な気持ちになるのです。この宗教家は、お店の成功や繁栄のために招かれてきているのに、この店の今後の計画や商売上の戦略を練る重要な会議には出席できないのです。参加することは許されないのです。そういう状況下でお店の繁栄だけを祈禱するというのは、ちょっとおかしいことではありませんか? 
お店の今後は、社長や重要なスタッフがいろいろ智慧を絞って成否が決まるのに、その重要な席に参加できない者が繁栄を祈願するのは、どう考えてもおかしい。言ってみれば、下請け的な仕事を宗教はやっているのでしょうか?

受験生の親が来て、自分の息子の大学合格祈願を宗教家にお願いする。それで合格したら、その宗教家のお陰だといって感謝されます。その大学に合格したい人はほかにも大勢いるのに、その人だけ特別扱いで合格してしまったら、なんとなくその祈願はカンニングして合格したような不正のニオイがします。

もちろん、ふつうはお店のことにしても合格祈願にしても、宗教はそこまで露骨な約束はしませんが、ものごとは多少オーバー目に考えたほうが理解しやすいので、私は極端な例を出したまでです。私がここで言いたいのは、お店の繁栄や有名校への合格祈願そのものは、べつにどうということもないのです。祈禱やお祓いをしてもらいたい人はしてもらえばいいし、お守りをもらいたければそうすればいい。でも、宗教や宗教家の本業は、はたしてそういうところにあるのでしょうか、という疑問です。

あなたのこころを管理する専門家はいますか?

この社会のシステムをちょっと考えてみましょう。われわれのつくっている社会というものは、どんな国でもだいたい同じシステムで、それぞれが専門分野の仕事を受け持って生活することになっています。

われわれは、髪の毛が伸びれば、理容師さんのところへ行って散髪してもらいます。理容師さんは、散髪に来たお客の気に入るように髪の毛を切り、調髪をします。その技術が高ければお客さんもたくさん来るでしょうし、お店も繁盛して暮らしも豊かになるでしょう。同じように、洋服屋さんは洋服屋さんで新しいデザインを取り入れたりして、仕立てを巧くスマートに仕上げて商売しています。お医者さんだって、具合が悪ければきちんと診てくれたり、クスリを調合してくれたりして、悪い箇所を治してくれます。

われわれは、おなかが空けば八百屋さんや肉屋さんへ行って食べる物を買います。八百屋さんも肉屋さんも、自分のところの材料がいかに新鮮でおいしく、さらに安いかなどを宣伝して商売をしています。

でも、理容師さんは新鮮な野菜を選ぶ技術はもっていませんし、お医者さんも病院に来た患者さんに、「ついでだから、散髪もしてあげよう」などということは言えません。それぞれが皆さん専門家であって、自分の専門以外のことについてはなにも知らないのです。お医者さんは、具合の悪いところを治してあげたらそれで役目は終わり。肉屋さんも新鮮な肉をお客さんに提供したら、それで自分の役目はおしまい。

言い換えれば、私たちは自分の人生において、パート、パートで専門分野の人たちとかかわるけれど、人生全部にかかわることはないのです。どういうことかというと、お医者さんはあなたの胃の具合については懇切丁寧に診てくれて治してくれますが、治ってしまえばもう関係ない人なのです。つまり、治ったあなたがその後、家で幸せにしているか、家族みんなで仲良くしているかなどということにはいっさいかかわってきません。あなたの子供が学校でイジメにあったり、先生に怒られたりしていても、肉屋さんには関係のないことなのです。

政治家だって、自分や自分の党の利益になることならどんな噓でも言ってがんばりますが、自分たちの利権にならないところでは、かかわってほしいと願ってもかかわってくれません。警察や弁護士だって、権限のある範囲でしかわれわれの身を守ってはくれないのです。世の中はこうしてますます専門分野が細分化され、その専門知識のレベルはたしかにどんどん高くなっているようですが、それらの専門分野の人びととわれわれは、人生のほんのわずかな部分でしか、かかわりあっていないのです。

では、人生の全体的な管理はいったいだれが、どういうふうにしているのか、という問題が出てきます。工場で、なにかの機械が必要になったとしましょう。大きな機械のハードな部分があって、組み立てるソフトのもろもろも揃っているとしても、それだけでは機械は機械としての役目を果たすことはできません。どんなに高価な部品を揃えてみても、そしてそれらを組み立てることができたとしても、その機械を動かすことのできる人がいなければ、機械は役に立たないのです。
われわれの社会も同じで、各パーツはぜいたくなものが揃っていて、そのパーツのそれぞれの専門家にはぜんぜん困りません。でも、それらのパーツを揃えてうまく動かしてくれる人が見つからないのです。全体的に、人生を管理してくれる人、指導してくれる人がいないのです。

エアコンを買いに電気屋さんに行って、そこで夫婦ゲンカの相談をしても、なんの解決も得られないでしょう。歯の治療に行って、「この髪にパーマをかけてちょうだい」などと言ったら、怒鳴られるか笑われるかのどちらかです。

この世でいちばん必要な専門家は、人生の全般的な管理をしてくれるところ、指導してくれる人なのです。そして、その役目を果たすことこそが宗教の仕事なのです。

一般的な宗教と仏教の決定的な違い

さきほどもお話ししたように、もし宗教が「ご利益系の宗教」となって、ご利益優先を打ち出すとなると、それは他人の仕事の横取りという現象を生み出しはしないでしょうか? もし、祈禱で病気を治すというようなことが行なわれたら、それはお医者さんの仕事を横取りすることになります。宗教家が他人の仕事を横取りするというのは、聞いた耳にも少なからず品のない印象を与えます。

キリスト教などは、人びとにきちんと道徳的な生き方を説いています。現代でも、世界中で愛の教えを実践している神父さんや牧師さんなども多く見られます。しかし、同じキリスト教のなかにも、祈りで病気を治すと言っている人もまたけっこう多いのです。一つの宗教のなかで、人生を全体的に管理しようとする人と、宗教の力でご利益を授けるという考えをもつ人がいるということでしょう。
このうち、ご利益を謳う人は、他人の仕事を横取りしようとしていることになります。こういう手合いは、現代の仏教の世界でも見受けられるのです。

一方で、イスラム教などはちょっと傾向が違っていて、一見、人生の管理を励行しているように見受けられます。というのは、イスラム教では政治も法律も、その聖典に書かれてあるようにしなさいと言って、人が身にまとう服装まで厳しく決めているのです。以前、新聞・テレビを賑わしたアフガニスタンのタリバン政権下では、男はみんな髭を伸ばすべきである、女性は教育を受けてはならないし顔も見せてはならない、などと決められていたそうですね。その決まりは国の法律となっていますから、守らないと法律を犯したことになって罰せられるようです。
こう見ていくと、イスラム教は人生全般を管理することを是としているように思えるのですが、そこまでいくとどうでしょうか。宗教が戒律をつくることはいいと思いますが、それを国の法律にまでしてしまうのは、やりすぎではないかとも思います。そうなると、人間が自由に自分の宗教に従って生き方を管理するというふうにはならなくなってしまうのです。男は髭を伸ばすべきか、女は顔を見せていいかどうかまで決める必要はないのではないでしょうか。それは、あくまでも私の考えです。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13

この施本のデータ

こころのセキュリティ
爆発寸前のあなたを幸せに導く「日夜の指針」 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月