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こころのセキュリティ

爆発寸前のあなたを幸せに導く「日夜の指針」 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

智慧の扉をひらく鍵をあなたへ

最後に、各偈の四行目の意味を説明します。

Gacchanti(ガッチャンティ) sabbe(サッベー) maraṇaṃ(マラナン) ahañca(アハンチャ)

「サッベー」=すべての生命。「マラナン」=死。「ガッチャンティ」=至ります。「アハン」=私。「チャ」=同様に。

「すべての生命という生命は亡くなります。私も同様に亡くなります」という意味ですね。この瞑想が、なぜ智慧の扉をひらく鍵になるのでしょうか?

これは「死随念」という瞑想の一つです。

「人は死ぬ。自分も死ぬ。ほかの生命だって、みんな死ぬ。そんなことはあたりまえではないか。だれでも知っていることではないか。それがなぜ瞑想になるのですか?」

と文句を言う人もいるでしょう。問題は、そういうことを真剣に考えているかどうかという点です。ことばのうえではわかる、理屈としてはそれはわかると思います。でも、自分や、自分の家族などの死に直面すると、このあたりまえだろうと言っていたことばをきれいに忘れてしまって、「ああ、不幸だ」「神さま、なんとか助けてください」などと取り乱したりするのです。

人は、なぜ死について語りたがらないのでしょう。人が死ぬと、なぜ不幸だと思うのでしょう。どうして、死に怯えるのですか?なぜ、夫や妻、親しい人の死を認めようとしないのでしょう。人間はこころのどこかで、死ということはあってはならない、と思い込んでいるのです。死は不自然な出来事である、と考えているのです。嫌いな人やイヤな人の死は喜んだり歓迎したりしますが、親しい人の死は悲しいし、つらい出来事だと思っているのです。

死を不自然な出来事だと考えているというのは、どういうことでしょう。たとえ急に雨が降ってきても、だれも驚きません。もちろん晴天がつづいても、驚く人はいません。自分の娘が「結婚します」と言ってきても、最初はちょっとぐらい驚いても、娘もそんな年頃になったかと納得して驚きません。
なぜ驚かないのかというと、それらはみんな自然な出来事だからです。あたりまえの出来事で、だれ一人びっくりもしません。
ところが死に対してだけは、同じような感情で受けいれることはできないのです。親しい人が亡くなれば悲しくなって、みんなの前で泣いたりもします。それが夫や妻が死んだりするとさらに悲しみをつのらせ、場合によっては何年もその悲しみを引きずって生きていくことになったりするケースもあります。自分になんの関係もない、あるいはあまり親しくもない人が亡くなった場合は、ほとんど関心を抱かないのです。

「人はみんな死ぬ。あたりまえではないか」とうそぶいている人たちは、じつはこういう自分に関係のない人が死んだときに、そんなふうに言っているのです。そういう人は一見、世の中のことをわかっている智慧のある人のように見えますが、それはとんでもない噓で、むしろ智慧がない人なのです。関係のない人に起きた不幸は、いつかは自分の身の回りにも起こることですから、そういうことを見越さないでわかったようなことを言うのは、智慧のない証拠です。しかもそういう人にかぎって、自分の身内や自分自身が死に直面したときに怯えたり、慌てふためいてオロオロしたりするのです。

他人の死にたいして「人はだれでも死ぬ」と智慧のありそうな態度をとるのは、逆に言えば「自分にはそういう不幸は起こるはずがない」という、まったく非論理的で無知な考えに支配されている証拠なのです。これは、傲慢の見本のようなものです。

「死随念」の不思議

「人はだれでも死ぬ」と知ったようなことを言う人のことを無知であると非難しましたが、じつは、人間はだいたいみんな同じように考えているのです。私たちの人生、生活そのものは、「自分は死ぬはずがない」という前提のもとに成り立っているのです。一所懸命勉強するのも、好きな人と結婚するのも、たいしておもしろくもない仕事に精を出してがんばるのも、みんな「私は死にません」という前提があるからです。人を蹴落としても自分の財産を殖やすことに腐心したり、ライバルを中傷したりして自分の地位にしがみつくのも、みんな「自分は死なない」という思いがあるからです。

ところが、こういう思いを実現するだけでも、私たちはものすごいエネルギーと能力を使わなくてはなりません。そのエネルギーの消費は、自分が幸福になるために使うときの量の何十倍も、何百倍もかかるのです。危険を避けるため、安全を確保するため、競争相手を抑えるため、敵を倒すため、死を避けるためにどれだけのエネルギーを使わなくてはならないのか。
「自分は死なない」という前提は、一個人だけのことではありません。会社同士、政治の世界、スポーツの世界、民族同士がみんなこの前提のもとに成り立っているのです。自国の利益を守るためと言って国同士が戦争までするのも、同じ理屈です。

そんなに苦労してがんばっているのだから、さぞかし皆さんは幸福になっているだろうと思って、「皆さん、幸福ですか?」と訊いてみると、ところがどっこい、「なんとか生きていることは生きているんですが」などと、なんとも頼りない返事が返ってくるのです。
なぜ、そういう答えしか返ってこないのでしょう。それは、「生命はみんな死ぬのに、自分だけは死なないとがんばって死を認めない」「不死になる夢ばかり追って、不死の秘薬と言われると大金を払っても手に入れようとする」「延命をはかるためならどんなことでも、犯罪でも人を殺してでも自分の生命を守ろうとする」「自分の命がいとしく、そのためなら相手がどうなろうとかまわない」といったふうに、自然に逆らって生きようとするためにムダな労力、エネルギーを使わなくてはならなくなるのです。これが、人間社会の常識となっているのです。

仏教から見れば、なんとも非論理的で、非常識で、幸福をもたらすためには逆効果になる発想であり、すべての不幸、苦しみを生む大本であると言うのです。

「死の観察」でこころは180度変わる

ブッダは、いつでも「死」を観察しなさい、と説かれています。事実から目をそらすことはいけない、と言われるのです。「自分にとって、この自分ほどいとしいものはない。自分以上にかわいいものは、この世にはない」という概念はだれにもありますし、お釈迦様もそれを認めています。そのいとしい、かわいい自分が、この世からなくなる、死ぬというのは、なんとしても避けたいことでしょう。認めたくないことでしょう。それは、わかります。
でも、そこで思考をストップさせるのはいけません。その段階は人間の欲の発想であり、事実に則した見方ではないからです。その先にある事実を見なければいけません。
それは、「命あるものは一つの例外もなく死ぬ」ということです。その事実から目をそらし「自分は死なない」と考えている人間はたいへんな愚か者であり、またその発想で人生を生きている人は、最強の無知なる存在であると言わなければなりません。無知な人ほど、いろいろと罪を犯します。無知な人はさまざまな人びとに迷惑をかけ、他人を不幸に陥れます。その結果、さらに自分を不幸にし、人生で失敗をくりかえしてしまうのです。

ところで、「自分も他人もみんな結局死んでしまうのだ」と観察することは、人生を暗くするでしょうか?「どうせ死ぬのだから」という見方は、厭世的になり無気力な思考を生むことになるのでしょうか? 
それは、まったく違うのです。

人間はいとも簡単に死んでしまうということを理解したとき、その人は「この世を生きていくことはとてもたいへんなことであり、一瞬一瞬を大切に生きていかなければならない」ということを納得するのです。
「自分も死に、他人も同じように死ぬ」ということが、理屈でなく実感として理解できると、他人に迷惑をかけることや、むやみやたらに暴力をふるったり、残酷な行為や残忍な思考を巡らしたり、ほかの生命を脅かすようなことをしなくなります。そういうことまでして、自分だけが生き延びることに興味がなくなっていくのです。
その代わり、みんなに優しくなってきます。名誉や財産、権力、容貌などに執着しなくなり、いざ死ぬときも落ち着いて平安のなかで死を迎えることができるのです。物質的な向上をめざすのではなく、精神的な向上を生きる目的にするようになって、その生き方も明るく気楽になっていきます。
たとえ幸福になっても舞い上がることもなく、また不幸になっても落ち込むこともありません。いつも平安なこころで、豊かな智慧が身につき、他人の役に立つ人間として生きていくのです。

この世でもっとも確実なもの

でも、死ばかりはまだだれも体験していないので、実感というものはないはずです。「実感のないものを観察せよと言われても困る」と言う人もいるかもしれません。それももっともな意見ですが、ブッダはこう説かれています。
それは、世の中のあらゆる死を観察すればいいのです。この世の中では、いつ、どこででも、生命の死というものに遭遇します。身内の死、親戚の死、友人・知人の死。人間ばかりではありません。魚市場に行けば魚の死体はいつでも見ることができるし、牛や豚や鶏などの死体もいつでも見ることができます。
そういう死に出会って、死を観察する。死というものを通して、ものごとがすべていつも変化していくさまを観察する。自分もその死や変化していく同じ状態にあるのだ、という無常を見ていくのです。死は、無常をもっとも実感的に理解するいい機会かもしれません。

もうひとつ、死の観察の秀れた点は、この世でもっとも確実なものを知ることです。この世の中で唯一確実なものというのは死です。死だけはだれにでも平等に確定している事実で、そのほかの世の中のことは不確定です。
お金持ちの人生を送るか貧乏生活になるかは分かりません。結婚する人もいれば一生結婚しない人もいます。結婚してもすぐに離婚して、その後何回も結婚する人もいます。子供が何人も生まれる人もいれば、一人も子供がもてない人だって出てくる。大きな会社を経営する人も出てくれば、リストラにあってホームレスの生活になる人もいるでしょう。この人生では、なにが起こるか、だれにも確定できません。
でも、死だけは子供にも断定できる唯一の確定事項です。

この世でいとも簡単に失ってしまうものは命です。人は一週間も食べることをやめれば、あるいは二、三日水を飲まなければ、死は確実に訪れます。
自分の命を守ってくれるものと信じている空気、水、火、食べ物、さまざまな道具、家、土地なども、一歩まちがえれば死の原因になってしまいます。
自分が愛する人びと、かわいがっている動物だって、ちょっとこころが変わっただけで、自分の命に危害を加える存在になってしまうことだってあるのです。たとえ、これらの人や物とうまく協調できても、いずれは歳を取って死んでしまうのです。

どんなに力んでも、どんなにがんばっても、どんな優秀な大学を出ていても、どんなに財産に恵まれても、どんなに才能や美しさに富んでいても、けっして避けることのできない確定事項は「死」です。

死は突然私たちを襲うのではなく、私たちが確実に死に向かって絶えず近づいていくのです。歩いて近づく人もあれば、走って近づいている人もありますが、死に向かって進んでいることだけはまちがいありません。死は遠くにあるものではなく、生といっしょについている、いわばセットなのです。

ロウソクの灯は、ロウがなくなっても消える。芯がなくなっても消える。人に消されても消える。風が吹いても消える。
人間の命も炎のように、泡がはじけるように消えてしまうのです。そんなはかない命なのに、無知な人はその事実を認めようとしない。「自分は死なないぞ」と、自分の命を脅かす者を殺してまで生きようとするのです。殺す道具を一所懸命考えたり、憎むためにいろいろな屁理屈を考え出したり、どうしたら人の財産を手に入れることができるかと夢中になったりして、なんとか長生きしようとして結局、自分の命を縮めてしまうのです。こういう人間こそ、無知というのではないでしょうか。
無知な人間がいなくならないかぎり、この世にほんとうの平和は来ないのです。不公平、不正はなくならないのです。そのために、死という確定事項をきちんと理解してほしいと思うのです。

「智慧の泉」が湧き出すとき

生きるということは、無常であるからこそ成り立つのです。生命は絶えず呼吸しています。食事をします。そういうくりかえしのなかで、新しいものを摂取し古くなったものを排泄して生命は保たれているのです。
この身体を保っているのも、何億何兆という細胞の、毎時毎秒の新陳代謝作用があってこそでしょう。老いること、病に見舞われること、からだが弱っていくことなど、みんな生きるうえでの欠かせない現象なのです。生きるというのは、変化そのものなのです。無常でなければ、命はありえないのです。

無知な人は、その無常のプロセスに逆らおうとするのです。死なない、変化しないと錯覚して、その結果、失望感に見舞われ、それでも執着を捨てられない人は、永遠の命とか、天国に生まれ変わるなどという妄想世界のなかに、ますますどっぷりとつかってしまうのです。天国には永遠の命が保証されていると勘違いして自爆テロを起こし、敵を倒そうと怒りを爆発させたりする人がいるのです。

すべては無常であると知って、命にたいする執着を早く捨てるべきです。死をイヤがること、死を恐ろしいものと考えることをやめると、こころがどんどん安らかになっていきます。一切の苦しみを乗り越えられるのです。一切の苦しみを乗り越えられる段階になると、そこではじめて解脱への道がひらかれます。

最近の日本では経済的な混乱もあって、自殺者が多く見られるようです。この自殺を考えることも、じつは生きることに激しく執着している結果として出てくる現象なのです。毎日の生活に追われてゆっくり考える時間もなく、とても「死随念」などの瞑想をする余裕もありません。そうなるとどんどん無知の状態になって、あるときなにかイヤなことが起こると、こころの爆薬に火がついて、簡単に自殺してしまうのです。
よく考えてみれば、自殺などしてもなにも得られないのに、爆弾に火がつくとそんなことに気がつく智慧も現われません。

無執着の生き方が身についていると、人生どんな場面に遭遇しても慌てもせず、それを克服する智慧が泉のように湧いてくるのです。どんなに困難に見える条件も、なんとかクリアする意欲やアイデアに恵まれるようになります。
ですから、私たち人間にとっての当座の宿題は、「どのように死ぬか」を考えるのではなく、「どのように生きるか」をめざすことなのです。そのためにはまず、「命あるものは必ず亡くなる。私も必ず死に至る」という偈を日夜念じて、自分のこころが無知に陥らないように、罪を犯さないように、生きるうえで悩むようなことがないように、この四行目を口ずさんでください。
「日夜の指針」の四行目は、こころの爆弾に火がつかないような状態、爆発しないような状態にする、すばらしい偈なのです。

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爆発寸前のあなたを幸せに導く「日夜の指針」 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月