施本文庫

仏教の「無価値」論

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

食べ物の価値ってなんでしょう? 

食べ物の無価値論は、在家の方々にはあまり関係がないことですが、少々出家の思考を紹介します。 

皆さま方は、食べ物に一番高いレベルの価値評価をしているのですね。食べ物もゴミだと言ってしまえば、抵抗を感じると思います。俗世間には、食文化というものがあります。苦労して何年もかけて習わないと、料理もできないことになっています。 

出家の食べ物にたいする見方は、まったく違います。人間のからだは、どんどん壊れていくのです。食べないと死んでしまいます。これは、どうしようもないことです。それで仏教の世界では、「ただあなたは材料を入れているだけです」「部品交換をしているだけです」と言われるのです。からだのいろんな物質が壊れて消えていく。消えていったものの替わりに、なにかを少々入れて補うだけです。食事にたいするアプローチは、そういうものなのです。
食べるとき唱えるのは、「感謝してありがたくいただきます」のような日本の方々に納得できる言葉ではありません。食物を否定するような文句ですね。尊いありがたい食事をいただくとすると、価値の世界です。仏教の道でないのです。 

このからだは、こころから離れてしまったら腐る遺体になるのです。生きているあいだも腐っていくのですが、こころという意識があるから腐ったものを洗い流すのです。お風呂にも入らない動物は、それほど臭くないのです。もし人間が体を洗わなかったら、世の中で一番悪臭を放つ生き物になるでしょう。 

悪臭を放つからだに、この食べ物を入れるのです。
不浄とはいえないこの食べ物が、からだに触れてすぐ不浄になるのです。悪臭を放つものになるのです。
からだの壊れていく場所の補修に必要な量だけ入れるのです。
健康になること、美しくなること、力持ちになることを期待しないのです。
修行の支えになるからいただくのです。 

このような意味の文句を唱えて食べるのです。お布施をする在家信者さんからすれば、自分たちがせっかく作って差し上げた食べ物を否定する意味のことが聞こえたら、機嫌が悪くなるのは確かです。
ですから、食べるときの観察の文句を、だいたいは声を出して唱えないのです。 

出家にしてみれば、食べ物はたんなる補修部品です。それは京都で作ったものであろうとも、とくにわざわざスウェーデンから輸入したものであろうとも、キャビアであろうとも、賞味期限が切れそうになっているものであろうとも、特別な感情がないのです。出家が食べ物に価値をつけてはいけないのです(キャビアを食べる人のからだは金色に光っているとかのように、もし効果があるならば食べ物に価値をつけることができますが、キャビアでも食べたら臭いものに変わるだけです)。
ですから、からだにちょっとでも価値をつけてしまうと、食べ物からも苦しみが増え、生きることが大変になるのです。 

ですから、自分と他人にたいして、物にたいして、価値をつけないで、肯定もせず否定もしないで、そのまま観察しつづけてみてください。価値について述べたこの話を理解すると、障害なく修行ができるようになると思います。 

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この施本のデータ

仏教の「無価値」論
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2001年5月13日