施本文庫

仏教の「無価値」論

 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

人生の価値として残るものはゼロ 

普通の人生というものは、よく分析して観察すると、結果としてなにも残らない骨折り人生になるのだと、失礼ながら申しあげたいのです。 

結果というものはどんなものにもありますから、「行為に結果がない」という意味ではありません。望んだ結果が一時的で、瞬時に消えるもので、なにも残らないという意味です。 

「いままでずっと仕事をしてきたのだから」と言っても、自分にとって価値があると言えるなにかが残らないのです。歳を取ると、名誉も財産も、あまり意味をもたなくなるのです。若いときにはお金を貯めて遊ぼうと思っても、歳を取ると遊ぶことがつまらなくなるのです。 

人生を経済的活動だけに費やして死に向かう人びとの人生は、どのように評価するべきでしょうか?社会は高く評価するかもしれませんが、一人の人間として、あるいは一つの生命として見ると価値が変わるのです。
働く、食べる、子孫をつくる、寝るというサイクルの中で回っただけになると思います。本能にふり回されて生きること以外、なにかをなさったことにならないのです。 

この点で考えると、「人生の価値はじつはゼロになる」と言うこともできると思います。少々ふざけた言い方かもしれませんが、「だからなんですか?」という疑問を投げかけてみてください。 

たとえば「わたしはすばらしいことをたくさん勉強しているのだ」と自分に価値をつける人がいるとします。「だからなんですか?」と問いかけてみます。勉強するとどうなるかというと、新しいことを知りすぎて苦しみが増える結果にもなります。また、つねに知識を磨かないと忘れてしまいます。あれやこれやと比較することにとらわれて、具体的な行動がむずかしくなります。
とにかく、老人になったらなんの役にも立たないことになります。 

会社の自分の地位がもっと上に昇格したとする。それで仕事が楽になるかというと、そうでもないのですね。責任が増えてしまいます。トラブルが起きたら自分の責任になります。ときどき、自殺する人のニュースも聞こえてきます。苦しみも悩むことも増えるだけ。
「だからなんですか?」「だからどうだっていうの?」と自問すると、人生について決まりきっている考え方から離れた視点で、ものごとが見えてくると思います。 

世の中で、われわれはいろいろなものを獲得して、がんばって生きているのです。結婚して相手をいただく。子どもをつくって、もっと仲間が増える。さらに、友達も増えて社会が広がる。それから研究して、勉強して知識も得る。いろんなことをなさって経験も深まる。なんの問題もなく成功して、生きているという喜びも感じる。 

でもよく見ると、生きる過程の苦しみを無視しているのです。苦労がうまく実ったということで喜びを感じるのです。「苦労のことを考えないことが幸せだ」と勘違いしているのです。 

得るもので壊すこころの安らぎ 

「一人では寂しい」と思っている人が、「友人さえいれば楽しい」と仮定して友達をつくろうとします。人が向こうからやってきて友達になってくれるわけはないのですから、こちらで工夫してつくらなくてはならないのです。
友人が一人ひとり増えるたびに、苦労も増えているはずです。責任も広がる。やらねばならないことが増える。自由に行動することを控えて、他人のことにも気を回さなくてはならないのです。 

友人と別れたら悲しいし、友情をもちつづけるためにも工夫することになるのです。性格の違う、思考の違う友人が集まったら、みんなをまとめるために神経を使うことにもなるのです。友人ができて寂しさが消えて楽しくなった分から、友人をつくり管理する苦しみを差し引いて評価すると、結果はプラスですか、マイナスですか? 

わたしは、かなり大ざっぱに「人生の価値は最終的にはゼロです」と言っているのです。 

他人をいい加減に見て、うらやましがる人もいます。「あの人にはたくさん友人がいて、……お金があって、あの人は人気者で、権力者で、知識人で、美人で、若者で、……うらやましいなあ、幸せだろうなあ」と思ってしまいます。
でも、それぞれの本人にとっては、自分の状態の維持は大変だと思います。苦労のほうが多いと思います。 

あまりにも他人のことを気にすると、暗くなります。悲観的になったり、逆に無理をすることになったりもします。引きこもりにもなります。ですから、自分のことも、他人のことも、「ゼロ価値」の立場で見たほうが楽だと思います。
単純に表面的な成功のみを観察して、「うらやましい」「ありがたい」「わたしもそのようになりたい」と思うとき、裏面も考えたほうがよいと思います。 

一つひとつ、われわれがこの世の中で得るものが、結局はわれわれのこころの安らぎを壊してしまうのですね。われわれの苦しみを増やしてしまうのです。 

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12

この施本のデータ

仏教の「無価値」論
 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2001年5月13日