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何が平和を壊すのか?

争いの世界を乗り越えるブッダの智慧 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

2 何が平和を壊すのか?

宗教は「絶対」を叫ばずにはいられない

人々が「これこそ本物だ、真理だ」と頼りたくなるもので、大きな危険を孕んだ存在はまだあります。信仰からなる宗教もその一つです。人々に平和と幸福を約束する宗教が、争いや憎悪、苦悩をもたらす現象は、世の中を観察するとごく当たり前に認められます。世界戦争や民族戦争が起こる時には宗教が大きな影を落としています。それらの不幸は実に延々と続くのです。私たちの身近にも、縋りついた宗教のお蔭で、自分も周囲の人々も不幸のどん底に落ちるような悲惨なトラブルを蒙った例はたくさんあります。

苦しみから早く脱出したいからといって、やみくもに信仰にすがるのは考えものです。それぞれの宗教が掲げる真理について、きめ細かく分析し考察することが、落とし穴を回避する手段につながります。そこで、これから神や仏などへの信仰から成り立つ宗教的な真理についても考えてみましょう。

宗教家は、みな自分の語ることは厳密に唯一の真理だと断言しています。唯一の真理ではなく、「そこそこの真理」を教えていると語るならば、その宗教は成り立たなくなります。だから宗教家は自分こそ正しいと言わざるを得ない。「唯一の真理は聖典に書かれている。その聖典の言葉は神の言葉である」と強調するのです。
世の中には、聖典と言われるものがいくつかあります。各々の聖典が真理のみを語っているのであれば、内容は言語が変わっても同じになるはずでしょう。しかし、内容は同じではありませんね。

自由にものごとを考える人々に、「どの聖典が真理を語っているのか?」との疑問が生じたとします。その人には二つの立場が採れるでしょう。一つは、すべての聖典を理解して共通の内容のみを抽出し、自分の聖典を作るという立場。もう一つは、すべての聖典を無視して、無神論者になるという立場です。どちらの場合でも、神の啓示だとされる聖典を無視したことになります。一つの宗教を信じている人が、「その宗教の聖典は神の啓示だ、真理だ」と信じるのは当たり前のことです。しかし、別の聖典を信じている人との対立が生じるのも避けられないのです。聖典の内容と信仰の仕方という二つについて対立が起きます。知識レベルの対立はいいとしても、戦争にまで発展して、宗教が人類の平和を壊したことは、大変残念な事態です。平和を説く諸宗教が、信仰が原因で平和そのものを壊す事態になっているのですから。

信仰に基づいた教えの場合、「この教えは絶対的な真理だ」と決め付けるのが普通です。そうなると信仰する人々は、自分の宗教の説いていることは真理か否かを確かめるのではなく、自分なりに理解して解釈して受け入れるのです。解釈することで同じ宗教のなかでさえも様々な宗派に分かれ、対立が起きます。たとえばキリスト教のカトリック派とプロテスタント派は、かつて戦争を起こしましたし、最近までイギリスとアイルランドの間で、両派の激しい紛争がありました。イスラム教にも、宗派間の争いはある。というわけで、一つの宗教のなかにおいても、信仰は人々の平和を壊す原因になってしまうのです。

信仰は憎しみの生みの親

本当ならば、真理について争い憎しみなどが生じるはずがないのです。例えば大地の形はどうなっているかと知りたくなるとします。科学的に調べてみた結果、地球が丸いという事実が分かる。みな争うことなく、その事実を認めるでしょう。異論を立てて対立することは不可能です。誰が検証しても、地球が丸いという答えが出ます。この例をみれば、真理を知ると争いが消えるはずだと理解できるのです。何かのテーマについて多くの意見がある場合、二つのケースが考えられます。一人だけ正しいことをわかっているが、他人はそれを理解できない場合。もう一つは意見を述べるすべての人が、正しいことを知らない場合です。どちらにしても多くの異論が生じれば争いが起こることは避けられません。

ブッダはこの問題を理解して解決しました。信仰だけでは、決して真理の証拠になりません。真理であるか否かという観点で、各自で確かめるべきです。真理について自分の主観で解釈すると、分裂が生じて争うことになります。互いの意見を強調しようとすれば、真理から逸脱してしまうのです。主観を離れ、みな真理を確かめることに励むべきである。それがブッダの答えです。仏教はいかなる争いも認めません。

一方、信仰を語る諸宗教では、自らの宗派間で争いや憎しみが生じたことを遺憾に思って、解決方法を考えました。「聖書に書かれていることは正しい。決して悪くない。しかし人々の解釈のせいで、本来の意味から逸脱して争いや憎み合いになったのだ。みな聖書の本義に戻るべきだ」と。それが「原理主義」の始まりです。しかし各宗教の一部が原理主義になったことで平和を取り戻せたかといえば、全く反対の結果になったのです。原理主義者たちが他の人々を裁くことになったので、また新たな争いや苦しみが生じてしまいました。この場合も信仰が問題の種でした。原理主義者の信仰こそが正しい真理で、他派の信仰は曖昧で正しくないと盲信したのです。原理主義者の間でも、真理を確かめようとは決してしないのです。神の啓示を確かめようと試みることは、神を信頼しない冒涜行為だと思ったのでしょう。原理主義もまた、人々の平和をなくし、争いと苦しみを増やす危険な試みになります。インドのヒンドゥー教は、今まで非常におおらかで平和的な宗教でしたが、最近になってヒンドゥー至上主義が現れて活動を始めました。結局それによって、他宗教の人々と戦う結果になってしまった。今まで大事に守ってきた共存主義が薄れたのです。

これは絶対的な真理だ、厳密に信仰せよ、とあらゆる聖典に書いてあります。しかし、それを真面目に信じる場合は、どうしても様々な問題やトラブルが発生します。人間が切望する平和と安らぎが、信仰によって跡形もなく消え去ってしまうのです。

真理は主張するものではなく、確かめるもの

お釈迦さまもまた、「私は真理を語っています。これが真理でないと言える生命はいません。たとえ神であろうと誰であろうと、これ以上のことは言えません」と、堂々と説かれます。でも他の宗教と大きく違うところは、信仰に対する仏教の冷めた立場です。ブッダは「確かめなさい」と言うのです。信仰によって智慧が居眠りすると、幸せにはならず、苦しみが増すばかりです。人々が真理を知って心の平安を得ることこそ、お釈迦さまの望んだ結果なのです。

ブッダの語ったことを自分で確かめれば、信仰に頼らず自分で発見した真理になります。その結果、心は平安になる。もう戦う必要はないし、問題も解消してしまう。例えば自分の幼稚園の子供が、「地球はどこを見ても、水平線で終わる。お父さん、地球が丸いなんてウソでしょ?」と主張したとします。貴方は子供と喧嘩しますか? 自分は事実を知っていて落ち着いているのです。この子にはまだまだ真理を知るのは無理なのだ、と分かりますから「それは大きくなって学校へ行って勉強すれば分かりますよ」などと言って済ますでしょう。真理を知った人は腹が立たないのです。知らない人にも真理を教えてあげようとします。教えても理解しないのなら、「そのうち分かるから、まぁ放っておきましょう」ということになるのです。
真理を知ることで、心に平安が訪れます。問題も簡単に解決するのです。

愚者は正義の味方となり、智者は他の過ちを許す

私も子供の頃、キリスト教の聖書を読んだことがあります。いくらか共感できたのは新約聖書でした。聖書に関する知識は殆どなかったし、一人勝手な読書でしたから、理解よりも誤解が多かったかもしれません。いま思い出してみると、イエス様は徹底して、「愛」というか、慈しみを語っている印象を受けました。それから他人を善いとか悪いとか判断することを戒めていた気がします。人には人を判断することは出来ない。この二つのポイントは、大変気に入っています。
なぜならば、仏教も同じような考え方を持っているからです。キリスト教に見られる神の概念はありませんが、仏教の考え方では、一切の生命は基本的には平等で、生きる権利も平等です。行為によって生命の間に差がありますが、生命としてみると平等だとみなしたほうが正しいのです。一つの生命に、もう一つの生命を管理したり支配したり、苛めたり見下ろしたりする権利は成り立ちません。

しかし、誰もこの「生命の普遍的な法則」を理解せず、他の生命を支配しようとするのです。支配しないまでも、他人を判断したり差別したりすることは全く平気なようです。誰にも他の人を判断する権利はありません。自分は遥か上の次元にいるかのように、他人を判断することはあまりにも見当はずれです。自分も他者も同じです。もし他者の過ちを見つけたら、「私もまた、いとも簡単に過ちを犯す人間である」と理解すべきです。しかし、全く自分を省みることをせず、他人に指をさすのが普通の人間のあり方なのです。

自分の過ちの場合は、「目をつぶってほしい、許してほしい」という気持ちがあるのです。もし許してもらったならば気持ちが大変楽になって、幸福を感じます。ならば他人の過ちを見つけたら、第一にそれを許してあげることが正しい道です。批判したり正したりするのは、第二のステップです。しかしその場合は、自分が相手をしつけなくてはならない立場であるときに限ります。人の過ちは許すべきです。憎むよりは許してあげるほうが楽なのです。

イエス様は人に優しくなさいという教えを貫きました。しかしそれほど愛にあふれた方でしたのに、社会から激しい批判を受けて人生を苦難のうちに終えた。これは間違いだらけの世界にあって、真理を貫いて生きるのがいかに難しいかという事実を物語っています。
私たち仏教徒も、生半可な気持ちでは慈悲の実践はできないのだと理解しています。人は自分の利益、幸福のみを考える存在です。自分さえ良ければいいと思って、自分に何か得があるときだけ、他人に優しくします。それは生命の本能です。慈しみそのものに生まれ変わらぬ限りは、根源的な本能である「自分さえよければ」、という醜い状態は変わらない。本能そのものを変えることは、相当な努力がないと為し得ないのです。

慈悲はひとつの「生まれ変わり」なのです。イエス様が説かれている「人は生まれ変わらなければいけない」というメッセージを、仏教徒である私は慈悲に置き換えて理解します。自分だけ良ければ……というわがまま執着だらけで、人を憎み、怨んで生きている人間に、「慈しみの人間として生まれ変わりなさい。肉体も血液も全部イエス様のものにならなくてはいけない。慈しみでなければいけません」という風に私は解釈します。

これは私自身の解釈なので、キリスト教の方々は決して私の解釈を認めないでしょう。キリスト教の解釈は、絶対的な存在である神の概念抜きでは成り立たちません。神が居るか居ないかは、信仰の問題です。信仰に基づいてものごとを解釈すると、異なる解釈が出てくる。私も私なりに解釈してしまうし、他の思考を持っている人はその思考パターンに基づいて別の解釈をする。キリスト教の方々の中でも、さまざまな解釈があるのです。自分の解釈を持つと、他人の理解解釈を認めなくなるのは普通の傾向です。自由な思考で真理を発見しようとするときには、信仰もハンディになります。ですから仏教の世界では、「自分で確かめてみること」を奨めるのです。

歩むべき道を確かめる方法

ここまで、「仏教は教えを信仰するのではなく、確かめてみる道です。それが仏教と他宗教の決定的に違うところです」と解説してきました。私は初期経典(Majjimanikāya,60. Apaṇṇakasutta 中部六〇、無碍経)から、その証拠を少々出してみます。大変古い経典なのですが、短くかいつまんで、理解しやすいように紹介いたします。

ある時、お釈迦さまがコーサラ国のバラモン人たちの村、サーラに行かれた。村人たちは、ブッダが厳密に真理を語っているという話を聞いて、お釈迦さまに会いに来ます。
お釈迦さまはバラモン人たちに向かってこう訊くのですね。「あなた方には、きちんと合理的に信仰している先生がいますか?」

仏教では非合理的な信仰は認めません。信仰に適した仏教の言葉は、saddhā(サッダー、確信する)です。信の場合はいつでもākāravatī(アーカーラワティー、合理的)という言葉を使っています。まだまだ自分では確かめていないけれど、論理的に考えて正しいと信じる。それが合理的に信仰するということです。

お釈迦さまの言葉を現代風に言えば、「あなた方、何か信仰している宗教がありますか」となるでしょう。すると、「まぁ私たちには別に、これといった信仰はありません」という答えが返ってきた。なんだか、現代人みたいな答えでしょう? バラモン人にはバラモン教という宗教があるけれど、それは言っていない。この経典に出てくる「バラモン人」という言葉は、バラモン階級の人々ではなく、自由思想を持っていて、非常に鋭く物ごとを考えた当時の人々を指しているかも知れない。とにかくこのバラモン人たちは、「自分たちには信仰するものがない」と言ったのです。

そこでお釈迦さまは、どう応じたか。他の宗教家ならば、「あなた方に宗教がないのであれば、これから私の説く教えを信仰してやってみなさい」という風に提案するでしょう。でも、お釈迦さまはこう仰った。「気に入っている、信仰している宗教がない場合は、apaṇṇaka dhamma(アパンナカ・ダンマ)という立場をとるのだ」と。

この場合、ダンマは「真理」という意味になります。パンナは疑問ということ。アパンナカは、「疑問は成り立ちません」という意味なのです。たとえば、私たちが道を歩んでいて、分かれ道に差し掛かったとします。どちらに行けば良いかわからない。そこで左右を調べてみる。たとえば左側には、たくさんの人が通った形跡が見える。あるいは、左方向から人の声が聞こえてきて、友達が遠くで旗を振って自分を呼んでいるのが見える。このような証拠が一つか二つあれば、道は左だと決めることができますから、迷うような疑問は成り立ちません。道は確かです。そのように、物事を判断するとき、何かを信じるとき、事前にしっかり調べないといけない。私たちにも人生の分かれ道で、どの道に踏み出そうかと迷うことがあるでしょう。ブッダの教えるアパンナカダンマの立場で判断するとしっかりした道を歩めると思います。

さて、お釈迦さまの活躍された当時、インドには幾つかの新宗教が流行していました。新宗教を開いた教祖たちは、決して言葉の遊びや金儲けが目的で宗教を教えたわけではありません。当時のインドは、想像を絶する残酷な殺戮を繰り返した時代でした。戦ったら殺される。戦わずにいても殺される。殺し殺されることが当たり前の毎日でした。それだけではなく、インド社会では不合理な道徳を押し付ける宗教に束縛されて人々がたいへん苦しんでいた。バラモン教のカースト差別によって、人々への搾取が残酷なレベルで続いていた。だから幾人かの教祖たちが、苦しむ人々に精神的な安らぎを与えるため、革命的な教義を説いたのです。

しかし、たくさん生まれた新しい教えのなかで、果たしてどれが正しいのかと人々が迷う事態も起きました。すがった宗教のために、苦しみや悩みを得て不幸になったら困りますからね。お釈迦さまはapaṇṇaka dhamma(アパンナカ・ダンマ)の立場から当時の諸宗教について語ります。そして、どんな宗教に出会っても、しっかり自分を守れるよう本物と偽物の区別の仕方を教えました。次節でその詳細を見てみましょう。

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何が平和を壊すのか?
争いの世界を乗り越えるブッダの智慧 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2003年5月