施本文庫

ブッダは真理を語る

テーラワーダ仏教の真理観とその変容 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

宝経と慈経は唱える

テーラワーダ仏教は真理を大切にする立場ですから、ただ祈ったり、神秘的なことを推奨することはありません。しかし、神秘的なことをまったくしないかというと、真理であるブッダの言葉(経典)を人々のために唱えることはしています。

一つには、人々を祝福するために『宝経』を唱えます。「人々の健康のために、幸福のために、祝福のために、ご利益のためにお経をあげてください」と言われれば、『宝経』をダラダラッとあげて祝福します。私も唱えますし、あの経典はどこでも、どんなお坊さんも唱えます。テーラワーダの世界では、『宝経』には不幸を妨げて幸福を与える神秘的な力があると信じられているようです。
しかし『宝経』の内容を見ると、神秘力を語ってはいません。「ブッダの説かれた真理によって、皆に幸福が訪れますように」と、慈しみを語っているのです。

教えがご利益経典に

どうして『宝経』を唱えるようになったのか、本当にお釈迦さまが祝福のために唱えるものとして教えたのかと聞かれると、疑問です。偈一つひとつの終わりは、“etena(エーテーナ) saccena(サッチェーナ) suvatthi(スワッティ) hotu(ホートゥ).(この真理によって幸福でありますように)”という祈り文句です。しかし、これの意味するところが神秘的な幸せか、合理的な幸せかということは、ブッダの真理を勉強すればわかりきっていることです。

たとえば、“Khayaṃ(カヤン) virāgaṃ(ヴィラーガン) amataṃ(アマタン) paṇītaṃ(パニータン)(ブッダの教えの場合は、欲がなくなって不死なる素晴らしい涅槃(ねはん)というものを教えているのだ)”、“yadajjhagā(ヤダッジャガー) sakyamunī(サキャムニー) samāhito(サマーヒトー).(釈迦牟尼がそういうものを体験しましたよ)”、“etena(エーテーナ) saccena(サッチェーナ) suvatthi(スワッティ) hotu(ホートゥ).(この真理によって幸福でありますように)”となります。

この経典自体には神秘は読み取れません。ただ真理を語って、お釈迦さまが「生命が幸福でありますように」ということで語っているものです。

お釈迦さまは最初に「伝道しなさい」と言うときでも、“Caratha(チャラタ) bhikkhave(ビッカヴェー) cārikaṃ(チャーリカン), bahujanahitāya(バフジャナヒターヤ), bahujanasukhāya(バフジャナスカーヤ)(すべての生命の幸福のために歩きなさい)”とおっしゃっています。
大乗仏教・テーラワーダ仏教といった区別は関係なく、仏教は全般的に人の幸福を願うのです。生命の幸福を願うのです。それはお釈迦さまがはじめられた、「一切の生命の幸福を目指して頑張りましょうよ、歩きましょうよ、語りましょうよ」ということです。『宝経』はそこを表現しているのです。「こんなに素晴らしい真理ですから、生命が幸福でありますように」と。
それをあとで、お守りの経典として使うようになってしまったのです。

お釈迦さまが覚ったことは真理なのです。素晴らしい涅槃を体験したのです。それがどうして人類の幸福になるのか、それを知った「私」の幸福になるのか、そのままでは論理が成り立ちませんね。そこは「はっきりと理解すると、私たちの心が安らぎを感じる」ということなのです。
たとえば、何かお釈迦さまの真理を学びます。すると、心からの納得が生まれます。そのときに「ああ、そういうことですか。よかった、良いことを教えてもらって」という幸福が生まれるのです。“etena(エーテーナ) saccena(サッチェーナ)”というのは「この真理によりて」ということです。『宝経』のその部分は、そのような仏教の内容がものすごく明確に書いてあるところなのです。

もう一つ、ご利益経典があります。『慈経』です。『慈経』の中身は、慈悲の瞑想を指導する経典なのです。しかし、現代では人々を祝福する経典に使っています。このように、強引にブッダの言葉を祝福経典として使っているのは、やはり神秘が好きな無智な人たちのニーズがあるからです。

たくさんの人々が、お坊さんたちに祝福をおねだりします。私は年に一度ぐらい、シンガポールへ行くのですが、そこに毎日毎日、祝福を求めてくる華僑の人がいたので、聞いてみたことがあります。「こんなこと、毎回やらなくてもいいでしょう」と。
するとその人は、「いいえ、違います。お坊さんは本気で我々のことを思っているのだ。それが大事なのです」と答えるのです。

仏教では誰であろうが人は幸せであるべきだと考え、出家者は心から人々に対する慈しみを持っています。それは修行の一環です。
たとえば、受験する子どもから「お坊さん、祝福してください」と言われたら、やはり本気で「この子が合格してほしい」と思って祝福します。その華僑の人にも、そのような本気の慈しみが通じているのです。「ああ、本当に心配してくれる。信頼できる」、それが大きいのだと思います。本気で心配して慈悲の心で何かをすれば、それは効き目があるでしょう。これは他の宗教でも同じだと思います。
神秘ではなく、慈悲の力によって何かがうまくいったり、具合が良くなったりすることはあるのではないかと、個人的な見解として感じます。

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ブッダは真理を語る
テーラワーダ仏教の真理観とその変容 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2015年