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ブッダは真理を語る

テーラワーダ仏教の真理観とその変容 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

真理と道徳は不可分離
増支部経典Brāhmaṇasaccasuttaṃ(“バラモンの真理”経)を読む

出典:Anguttaranikāyo Catukkanipātapāli 185.Brāhmaṇasaccasuttaṃ
(増支部四集一八五「バラモンの真理」経 A4-185 )

釈尊、「遊行者園」へ行く

Ekaṃ samayaṃ bhagavā rājagahe viharati gijjhakūṭe pabbate.
Tena kho pana samayena sambahulā abhiññātā abhiññātā paribbājakā sippinikātīre paribbājakārāme paṭivasanti,
seyyathidaṃ annabhāro varadharo sakuludāyī ca paribbājako aññe ca abhiññātā abhiññātā paribbājakā.
Atha kho bhagavā sāyanhasamayaṃ paṭisallānā vuṭṭhito yena sippinikātīre paribbājakārāmo tenupasaṅkami.

あるとき、お釈迦さまが王舎城で霊鷲山にお住まいになっていました。
そのとき、たくさんの著名な遊行者たちがシッピニカー川岸の遊行者園に集まり住んでいました。
すなわち、アンナバーラ、ワラダーラ、サクルダーイとその他の著名な遊行者たちです。

ときにお釈迦さまは午後、独坐していたところから出てシッピニカー川岸の遊行者園に出かけました。

これから経典を解説いたします。

ある時お釈迦さまが王舎城で霊鷲山にお泊りになっていたときの話です。

たくさんの著名な宗教修行者たちがシッピニカー川の岸辺に集まって住んでいました。宗教修行者たち(paribbājakā(パリッバージャカー))とは、自由な立場をとっている修行者たちのことで、宗教組織に入っている場合もあるし入っていない場合もあります。日本では「遊行者」という訳語を当てています。

インドで「川」といえば、宗教者たちが住みついて宗教儀式をやる場所になっています。修行者たちは川のほとりで、それぞれの宗教のしきたりに従って修行をするのです。
シッピニカー川岸(sippinikātīra(シッピニカーティーラ))の「遊行者園paribbājakārāme(パリッバージャカーラーメー)」もいわゆる修行の聖地で、遊行者たちがよく訪れる場所でした。アンナバーラ、ワラダーラ、サクルダーイという名前の3人は当時では著名な遊行者だったのです。今風に言えば「セレブ」ですね。
中部経典には、サクルダーイの名前がタイトルになっている経典(中部No.77、No.79)も収録されています。それ以外にもたくさん名の知れた修行者たちが集まっていました。

お釈迦さまと比丘たちは昼下がり、独坐に入るのが習慣でした。独坐というのは、他の人々とも同行者たちとも話をしないで、冥想に入っていることです。それから午後、現代風に言えば勉強の時間です。お釈迦さまが比丘たちに説法することも、出家同士で説法することも行われました。在家の方々も、質問したり対話をしたりするならば、この時間になるのです。
この日、お釈迦さまは著名な遊行者たちも集まっているということで、対話をするためにシッピニカー川の岸辺の遊行者園に出かけたのです。

他宗教の集団を訪ねるとはどういう事かと思われるでしょう。それはよくあることです。宗教者の間では教えに対して異論があれば論争したりはするけれど、人間としての付き合いは普通にやっているのです。宗教は違っても、人間として仲良くすることは大切にしていたのです。
現在では我々は排他的な宗教の影響を受けているので、他宗教の集いに参加するのは変に思うようになっているのです。経典を読むと、宗教者同士の対話、議論などが普通に行われていたことがよく分かります。
我々も違った生き方、違ったしきたり習慣、違った信仰、違った文化などをもつ人々と、仲良く対話する習慣を育てるならば、「平和に暮らす」という言葉の真義を経験することができると思います。

遊行者の話題は「バラモンの真理」

Tena kho pana samayena tesaṃ aññatitthiyānaṃ paribbājakānaṃ sannisinnānaṃ sannipatitānaṃ ayamantarā kathā udapādi – itipi brāhmaṇasaccāni, itipi brāhmaṇasaccānī ti.
Atha kho bhagavā yena te paribbājakā tenupasaṅkami; upasaṅkamitvā paññatte āsane nisīdi.
Nisajja kho bhagavā te paribbājake etadavoca –

そのとき、他宗教の遊行者たちの集いの中で、このような話が盛り上がりました。
「これもバラモンの真理である、これもまたバラモンの真理である」と。
ちょうどその時、お釈迦さまは遊行者のところに出かけ、設けられた座に坐りました。
お座りになったお釈迦さまは遊行者たちにこのように言われました。

「これもバラモンの真理である、これもまたバラモンの真理である(Itipi(イティピ) brāhmaṇasaccāni(ブラーフマナサッチャーニ), itipi(イティピ) brāhmaṇasaccānī(ブラーフマナサッチャーニ))」と言われても、どういう意味か分かりませんね。
Itipi(イティピ)は「したがって・そういうわけで・これこれ・これもです」など、脈絡によっていろいろな訳をします。このようなイメージで考えてみましょう。一人の遊行者が、自分が信仰している教義を説明して、結論を出して、「そういうわけで、これがバラモンの真理になる」と話を終了するのです。もう一人の修行者が、自分の教義を説明して、また同じく「そういうわけで、これがバラモンの真理になる」と話を終了するのです。

遊行者たちは自分の教え、自分の哲学や宗教について、人生についていろいろ語り合ったことでしょう。著名な遊行者たちも集っていたので、当然、起こり得る出来事です。もしかすると、遊行者たちが宗教シンポジウムのようなものを開いていたのでしょう。
話が盛り上がっていたところに、お釈迦さまも入られたので、そこで一旦、話は中断になりました。

「バラモンの真理」とは

Kāya nuttha, paribbājakā, etarahi kathāya sannisinnā, kā ca pana vo antarākathā vippakatā ti?
Idha, bho gotama, amhākaṃ sannisinnānaṃ sannipatitānaṃ ayamantarākathā udapādi – itipi brāhmaṇasaccāni, itipi brāhmaṇasaccānī ti.

「遊行者のみなさん、集ってどんな話をしていたのですか? またどのような話が中断になったのでしょうか? 」

「ゴータマさん、ここに集った私たちはこのような対話をしていたのです。『これもバラモンの真理である、これもまたバラモンの真理である』と。」

お釈迦さまは、遊行者たちがせっかく熱くなってきた対話を中断したのです。お釈迦さまも当時のインド社会ではトップ・エリートでしたので、礼儀作法は完全です。ですから礼儀として、まったく違う話題を持ち込まないで、いままで進行した話題を続けられるように参加されるのです。
お釈迦さまは、相手が何を語っていたのかとまず訊いてから、それについてご自身の説明をされるのが普通です。お釈迦さまは話題に関して自分の意見を述べるのではなく、真理を語るのです。その結果として、話題になった問題が解決するので、みな助かるのです。
比丘たちの集いでも、他の宗教者たちの集いでも、お釈迦さまの飛び入り参加はたいへん好まれたのです。

次の問題は、《brāhmaṇasacca(ブラーフマナサッチャ)(バラモンの真理)》とは何なのか、ということです。バラモンとは、バラモン人のことです。バラモン人にはバラモン教(現代のヒンドゥー教)があります。仏教も、遊行者たちの諸宗教も、バラモンの伝統とは違うのです。バラモン教とは違う宗教の行者たちを集めて、真剣真面目にバラモン教を学ぶことはあり得ない話です。結局は自分たちが修行しているそれぞれの宗教のことを語っていたのです。自分の教義に「バラモンの真理」と言うならば、バラモンという単語の意味は「バラモン人」ではなくなるのです。

バラモンという単語は「勝れている」という意味で理解しておきましょう。バラモン人も、勝れている、という意味で自分たちがバラモン・カーストだと自称したのです。森羅万象を創造した神様だと、バラモン教で信じている神様は、ブラフマなのです。ブラフマさんが自分の口から創造した人間は、バラモン人だそうです。
というわけで、バラモンとは「最高、勝れている」という形容詞として理解することができます。
Sacca(サッチャ)とは、真理です。この経典で、saccāni(サッチャーニ) と真理を複数形で記しているのです。真理とは一つである、というのは一般的な話ですが、いくつかの宗教家たちが「これが真理、これが真理」と言うと、当然、真理が複数になってしまうのです。

パーリ経典で使う単語から推測すると、突然、brāhmaṇasaccāni(ブラーフマナサッチャーニ)と出てくると、その意味が分からなくなります。ふつう使わない単語を使う場合は、お釈迦さまは必ず相手にその単語の意味を訊くのです。お釈迦さまも一般人が日常使わない単語を使う場合は、まず定義してから説法なさるのです。
この経典では、brāhmaṇasaccāni(ブラーフマナサッチャーニ)という単語の定義はありません。ということは、この言葉の意味は誰でも知っていたことになるのです。「バラモンの真理」とは、「勝れた真理」ということになります。

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ブッダは真理を語る
テーラワーダ仏教の真理観とその変容 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2015年