施本文庫

「宝経」法話 

Ratanasuttaṃ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第一偈

Yānīdha bhūtāni samāgatāni
ヤーニーダ、ブーターニ、サマーガターニ
Bhummāni vā yāni va antalikkhe
ブッマーニ、ワー、ヤーニ、ワ、アンタリッケー
Sabbeva bhūtā sumanā bhavantu
サッベーワ、ブーター、スマナー、バワントゥ
Atho pi sakkacca suṇantu bhāsitaṃ.
アトー、ピ、サッカッチャ、スナントゥ、バースィタン

ここに集いし諸々の精霊は、
地に棲むものたちも、虚空に棲むものたちも、
一切の精霊は、こころ喜ぶがよい。
そして、我が語るところを謹んで聞くがよい。

ここに(īdha)集まって来た(samāgatāni)生き物たちは(bhūtāni)
あるいは(vā)地にいるもの、(bhummāni)あるいは(va)虚空において(antalikkhe)いるものたち(yāni)も、
まさしく(va)一切の(sabbe)生き物たちは(bhūtā)心喜んで(sumanā)あれよ。
さらに(atho)また(pi)恭敬して(sakkacca)[私が]説くことを(bhāsitaṃ)聞きなさい(suṇantu)。

霊たちへの祝福

【意訳】

「ここに集った皆様に、こころの喜びがありますように。これから話す言葉をよく謹んで聴いてください。」

この偈でお釈迦さまの説法が始まります。この偈は、挨拶の言葉です。日本文化では「こんにちは」と挨拶しますが、インド文化圏では挨拶は「祝福の言葉」なのです。「皆様にこころの喜びがありますように」というような意味の偈です。「皆様」は、この偈で「bhūtā(ブーター)」になっています。一般的にbhūtaは霊と訳しますが、『慈経』にあるbhūtaは「既に生まれている生命」という意味です。お釈迦さまは霊たちにだけ挨拶して語られたというより、皆に語られた言った方がよいと思います。ですから、この偈を意訳するならば、「ここに集った皆様に、こころの喜びがありますように。これから話す言葉をよく謹んで聴いてください。」ということになります。

第二偈

Tasmā hi bhūtā nisāmetha sabbe
タスマー、ヒ、ブーター、ニサーメータ、サッベー
Mettaṃ karotha mānusiyā pajāya
メッタン、カロータ、マーヌスィヤー、パジャーヤ
Divā ca ratto ca haranti ye baliṃ
ディワー、チャ、ラットー、チャ、ハランティ、イェー、バリン
Tasmā hi ne rakkhatha appamattā.
タスマー、ヒ、ネー、ラッカタ、アッパマッター

それゆえ、一切の精霊は耳を傾けよ。
人間に慈しみを垂れるがよい。
昼夜に供物を持ち来たる人々を
怠ることなく護るがよい。

まさに(hi)それ故に(tasmā)すべての(sabbe)生き物たちよ(bhūtā)[あなたがたは]注意して聞きなさい(nisāmetha)。
人間たちに(mānusiyā pajāya)慈しみを(mettaṃ)作しなさい(karotha)。
昼に(divā)そして(ca)夜に(ratto)人間たちは(ye)供物を(baliṃ)持ち来る(haranti)。
まさに(hi)それ故に(tasmā)彼らを(ne)[あなた方は]怠りなく(appamattā)護りなさい(rakkhatha)。

お釈迦さまの命令とは

「それでは、一切の精霊たちはこころして聴きなさい。人間に対して慈しみをいだきなさい。日夜あなた方に供養をする人々を怠りなく護りなさい。」

Bhūta(ブータ)の意味は生命で構いませんが、第二偈のbhūtaは霊のことです。お釈迦さまは霊たちに向かって、供養する人間に対して慈しみをいだき、守りなさいと指示しています。三宝に帰依している仏教徒たちは、この世の中で、誰にも釈尊の命令に逆らうことができないと信じているのです。仏教徒たちは、神々に何かの願いごとをする場合は、まず『宝経』か『慈経(Mettasuttaṃ メッタスッタン)』をとなえてから願いごとを告げます。そうすれば、神々にも無関心でいることはできないと思っているのです。

お釈迦さまは、人間が霊たちに供養する習慣を理由にして、霊に「人々を守りなさい」と指示します。昔から今まで、人間は霊たちも神々も放っておかなかったのです。存在するか否かも分からないのに、あれやこれやと考えて霊と神々のことを推測してきたのです。それから、「この霊はこのようなお供えが好きだ」「あの霊はこのような儀式が好きだ」等々と考えます。漁師が信仰する神は魚が好きで、田んぼをつくる人の神はコメのお供えが好き。音楽・踊り・お祭りが好きな神々もいるとも想像するのです。神々にどんなお供えをするか、どのような踊りをしてあげるか、どのような祭りをするか、人間が勝手に考えることです。本当に神々がそれを必要としているか否かはわからないことです。うるさくてたまらない可能性もないとは言い切れません。日本の神社のお祭では、お神輿を担いで激しく上下に揺すりながら町を歩きます。御神体は神輿のなかに収めてあります。神様には肉体が無いから構わないと思いますが、もしあったら心臓発作を起こす可能性もあるでしょう。神様はほんとうに神輿を揺すって欲しいのか、ぶつけ合って欲しいのか、川の中に投げ入れて欲しいか、よく分かりません。儀式・供養・お祭りなどは、人間が考えだすものです。どんな国の人間でも、どんな宗教の人間でも、悪霊から身を守りたいし、神々に願望を叶えて欲しいのです。

神々や霊が必要とする供養であるならば、彼らにも人間にお返しする義理が生じます。それもよく分からないのに、人間は必死で供養だけはしているのです。経典のポイントは、「(人間が)そこまで供養して頑張っているのだから、心配してあげなさい」ということです。

第三偈

Yaṃ kiñci vittaṃ idha vā huraṃ vā
ヤン、キンチ、ヴィッタン、イダ、ワー、フラン、ワー
Saggesu vā yaṃ ratanaṃ paṇītaṃ
サッゲース、ワー、ヤン、ラタナン、パニータン
Na no samaṃ atthi Tathāgatena
ナ、ノー、サマン、アッティ、タターガテーナ
Idam pi Buddhe ratanaṃ paṇītaṃ
イダン、ピ、ブッデー、ラタナン、パニータン
Etena saccena suvatthi hotu
エーテーナ、サッチェーナ、スワッティ、ホートゥ

この世、あるいは来世におけるいかなる富も、
また天上にあるいかなる妙宝も
我らの如来にひとしきものあらず。
此は佛陀が勝宝たる由縁なり。
此の真実により、幸いがあらんことを。

この世における(idha)あるいは(vā)他の世における(huraṃ)いかなる(kiñci)財産(vittaṃ)というもの(yaṃ)であれ、
あるいは(vā)天界における(saggesu)[いかなる]勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)というもの(yaṃ)であれ、
確かに(no)如来と(tathāgatena)等しいものは(samaṃ)ない(na atthi)。
これも(idam pi)佛陀における(buddhe)勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)[である]。
この(etena)真実によって(saccena)幸せが(suvatthi)あれ(hotu)。

ブッダの言葉は最強の力を持つ

「この世の、あるいはあの世のどのような宝であろうが、あまたの天上にあるどのような宝であっても、如来と等しい宝は決して存在しない。それゆえに一番高価な最も勝れた宝というのはブッダなのです。この真実によって幸せでありますように。」

霊の話は二偈までで終わります。神々にお供えをするべきかも、止めるべきかも、説かれていないのです。人間にそのような習慣があるのだ、というところで終わっています。『宝経』の第三偈から、仏教の真理を語っています。世の中にあるいかなる財産よりも、いかなる宝よりも、ブッダこそが最上の宝である、と説かれているのです。それが真理です。この真理によって幸福でありますように。

宝というと物質的なものをイメージします。金銀宝石に限らず、土地・家なども人間にとって宝です。価値あるものです。それによって俗世間的に幸福になるのです。たくさん財産がある人は、それだけでも喜びを感じるのです。価値あるものは宝です。宝があれば幸福を感じる。そこで「最上の宝とは如来である」と説くのは、「如来はこの上のない幸福をもたらすのだ」という意味になります。これは神秘的な意味ではありません。ブッダに出会って幸福にならなかった人は一人もいません。究極の幸福である解脱に達したいと思う人も、ブッダに会わなくてはいけないのです。日常的な悩み苦しみを無くす方法も、ブッダが説かれるですから。ブッダに会う機会さえあれば、問題は解決です。

ブッダに会うためには、ブッダが生きていなくてはいけないのです。いま、お釈迦さまは涅槃に入られているので、私たちは幸福になるチャンスを逸したのでしょうか。人間がこのように思う可能性があると、お釈迦さまはご存知でした。そこで涅槃に入られる前に、「これから私の説いた法(真理)と律(道徳)があなた方にブッダの役割を果たします」と告げたのです。ですから経典を開けて何かブッダの言葉を読めば、それがブッダに会うことになります。経典を読んで理解すると、人間には自分の問題を自分で解決する力が身につくのです。教えが正しくなければ、何の力もありません。守っている道徳が正しいものでなければ、何の結果もありません。しかし、仏教を学ぶことで、道徳を守ることで、人は目の当たりに幸福になるのです。これが真理の力というものです。

Suvatthi hotu(スワッティ、ホートゥ)――幸福でありますように。これは祝福の言葉です。しかし神秘的な力で人々を祝福してくれるのだとしたら、仏教も他の祈祷師たちと同じことをやっているようになります。幸福でありますように、という祝福文句は、人間から誰に対してもいうべき、挨拶の言葉になるべきものです。互いに祝福しあうと皆幸福になるのは、神秘的な力ではなく現実的な働きです。周りが応援することで、人は頑張る気になって、力を発揮するのです。

一切の生命が幸福でありますように、という祈願をもって生活することが、仏教の推薦する生き方です。それは仏教の修行でもあります。もしある人が、「如来は最上の宝物なり。この真理によってすべての生命が幸福でありますように」と念じるならば、その人は修行しているのです。ブッダの道を歩んでいるのです。ですからこの経典は、他人を祝福する祈祷的な経典というより、一人一人に修行することを促す経典として、敬うべきだと思います。

祝福の効果

祝福してもらったら幸福になりますか? この問題について仏教的な解説を理解しておいたほうがよいと思います。他人に何かをあげる・与えるという行為の場合は、あげる・与える人がその何かを持っていなくては実行できません。「私があなたに東京三菱UFJ銀行の資産をすべてあげます」と言ったら、笑い話以外のなんでもないでしょう。自分が持っているものなら、あげることができるのです。祝福の場合も、法則は似ていると思います。自分が悩んでいる人であるならば、他人の悩みを無くしてあげることはできません。自分が病気に陥ったら、人の病気を治してあげることはできません。無学で無知識な人に、他人に何かを教えて上げることはできないのです。自分が幸福を実現しているならば、いとも簡単に他人にも幸福を与えることができます。お釈迦さまは究極の幸福に達していたのだから、お釈迦さまの口から「幸せでありますように」と言われたら、相手は確実にたちまち幸福になるのです。

幸福の秘密は、慈しみです。何回受験しても落第する人にも、他の受験生を応援することはできるのです。「私は頭が悪くてまったくダメですが、あなたは何としてでも合格して欲しい」という場合は、相手に対して慈しみがあるのです。祝福を受けた人に、頑張らなくてはいけない、という意欲が沸きます。病気に陥っている人にも、「私はこのような生き方をしたので病気に陥ってしまった。あなたは私のような生き方をすぐ止めて、健康で長生きできるように励んでください」という場合は、相手が病気に陥る生き方を戒めることになります。人々の幸福を願って経典を唱えるときも、その慈しみの気持で唱えるべきだと、注釈書で厳しくアドバイスされています。神秘力、言霊、マントラなどの迷信は、仏教ではありません。人を有効に祝福する力は、慈しみです。言霊の力ではないのです。

祝福を期待する人々は、神々や霊たちに米・野菜・果物・肉・魚・酒・金品などをお供えします。そのような品物で神々が養われているならば、意味がある行為です。しかし、神々や霊たちはけっこう貧乏なのではないかと、余計なことを言いたい気持ちにもなります。鰯(いわし)の頭を柊(ひいらぎ)の枝にさして、鬼を払うという風習があります。この程度のことに怯える鬼なら、ちょろいものです。このような習慣は、仏教から見れば残念ですけど迷信に過ぎない。しかし、蚊取り線香で「鬼退治」をする場合、鬼の正体はよく知られています。この意見に反対する人々は、神棚の前に榊(さかき)を捧げているのは神に対する人間の感謝の気持ちを表すためだと述べます。感謝とは、幸福になった人々が行う習慣です。しかし、ついでに来年のことも祈願しているのではないでしょうか。世界の人間がやっている儀式儀礼などの習慣の中には、慈しみの気持ちが含まれていない気がします。神に食べようともしないお饅頭をさし上げるよりは、「神々が幸福でありますように」と念じたほうがよいでしょう。慈しみが含まれた行為なので、幸福になります。

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「宝経」法話 
Ratanasuttaṃ 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月