施本文庫

「宝経」法話 

Ratanasuttaṃ 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第八偈

Yathindakhīlo paṭhaviṃ sito siyā
ヤティンダキーロー、パタヴィン、スィトー、スィヤー
Catubbhi vātehi asampakampiyo
チャトゥッビ、ワーテーヒ、アサンパカンピヨー
Tathūpamaṃ sappurisaṃ vadāmi
タトゥーパマン、サップリサン、ワダーミ
Yo ariyasaccāni avecca passati
ヨー、アリヤサッチャーニ、アヴェッチャ、パッサティ
Idam pi Saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ
イダン、ピ、サンゲー、ラタナン、パニータン
Etena saccena suvatthi hotu
エーテーナ、サッチェーナ、スワッティ、ホートゥ

[城の]主柱が地に立ちてあるならば、
四方の風に揺らぐことはない。
[四]聖諦を如実に観ぜし仙人[預流果の者]は、
是の如く喩えらるると我は言う。
此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。
此の真実により、幸いがあらんことを。

門柱が(indakhīlo)大地に(paṭhaviṃ)依って立って(sito)あるならば(siyā)、
四方からの(catubbhi)風によっても(vātebhi)揺らぐことのない(asampakampiyo)ように(yathā)、
[四]聖諦を(ariya saccāni)確かに(avecca)観る(passati)ものは(yo)、そのたとえのように(Tathūpamaṃ)、善き人と(sappurisaṃ)私は言う(vadāmi)。
これも(idam pi)僧団における(saṅghe)勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)[である]。
この(etena)真実によって(saccena)幸せが(suvatthi)あれ(hotu)。

こころ揺らがない預流果の弟子たち

「城門にたてられた柱が地面に打ち込まれて、四方からいくら風が吹いても揺らがないように、四聖諦を体得した預流果もそのように揺るぎません。それゆえにサンガは勝れた宝なのです。この真実によって幸せでありますように。」

この偈で四方から吹く風に揺らがない柱を例えにしています。恐らく宮殿を中心にして城塞を造る時、最初に頑丈な柱を地面にしっかりと固定して、建物などをその柱に繋げて造ったのだろうと推測しますが、当時、どのような柱だったかは全く分かりません。日本の法隆寺などにある五重塔は、頑丈な心柱を立ててから、そちらに繋げて塔を組み立てます。心柱の力で、五重塔は安定した建物になるのです。昔もこのように建物を安定させるために、中心になる柱を最初に建てたことでしょう。この柱はパーリ語でindakhīla(インダキーラ)と言います。揺らがない柱という意味があります。
この柱は四方から吹く風に揺らがない、ということを強調しています。柱ではイメージが湧かないと思われるならば、岩が風に揺らがないように、としても構いません。智慧によって四聖諦を体得した人のこころも、このように揺らがないものだと説かれるのです。

揺らがないとは、何を意味するのでしょうか。人のこころはあまりにも弱く揺れ動くものであると、また、守り難いものであると、お釈迦さまは説かれます。しかし、真理を理解した人のこころは揺らぎません。人は、真理を発見していない場合は、一生、推測ばかりをして生きていなくてはいけないのです。人間には、貪瞋痴という感情があります。我々は、「真理を知りたい」と励んでいるのではなく、感情に命令されることをやっているだけです。生きるとは何なのか、死後どうなるのか、などの疑問にも、貪瞋痴に誘導された答えを出します。貪瞋痴がある人は、いとも簡単に誘惑されます。死にたくないと思っている人に、命は永遠だと言えば、飛びついて信じるのです。欲に溺れて道徳を無視して生きている人に、命は死で終わるものだと言えば、朗報になります。私たちの知識も、それほど優れたものではありません。私たちは客観的なデータをそのまま認識するのではなく、自分たちの都合に合わせて知識にするのです。人間の知識とは、人間の都合により組み立てた概念です。他の生命にとっては、何の関係もありません。人間の都合とは貪瞋痴の誘惑なので、知識も貪瞋痴の産物なのです。貪瞋痴があるかぎり、こころは揺らぎます。いくら高度な知識人になったとしても、こころは揺らぎます。

宗教や信仰の世界は、揺らぐ精神の代表です。強烈な自我によって、様々な概念を妄想して信仰するのです。自分が語る概念を証明しなくてはいけないとは、ぜんぜん思っていません。神が森羅万象を最初に創造した、と言えば、相手はそれを信じなくてはいけないのです。聴く相手も激しい自我愛で病んでいるならば、その言葉を鵜呑みにします。死後永遠になる方法、地獄の永遠の苦しみから身を守る方法、病気を治す方法、豊かになる方法、敵を倒して勝利を得る方法、子宝に恵まれる方法、長生きできる方法、等々を宗教家が誇らしげに語るのです。貪瞋痴に汚染されて弱くなっているこころの持ち主たちは、このような話を信じます。しかし約束された結果が出ない場合は、別な宗教のやり方を試してみるのです。証明することは全くない妄想概念ばかりなので、信じるより仕方がありません。信仰があるとは、こころが弱く、揺らいでいる証です。こころが煩悩に汚染されている証なのです。

生命に関する真理は四聖諦です。試すことで、各自で四聖諦は真理であると証明することができます。四聖諦を信じる必要はないのです。信仰、先入観、自分の都合などを抑えて、客観的に物事を観察すれば、誰にでも四聖諦を発見することができます。四聖諦は真理であると発見した人が、預流果の覚りに達した人だと名づけてあります。預流果に達した人のこころは、揺らぐはずもないのです。真理を知っているから、「こうではないか、ああではないか、この人が言っていることが正しいかもしれない、この人が言っていることにも一理あるのではないか」等々の揺らぎもまったくありません。こころは安定しています。

Indakhīlaという柱は、人間が苦労して正確に立てるものです。岩のように、初めからあるものではないのです。貧弱で揺らいでいるこころを、真理を発見するという明確なプログラムによって安定させるのです。ですから、お釈迦さまは預流果に達した人のこころを岩ではなく「柱」に例えました。こころが岩のようと言えば、何の発展もない頑固なこころを意味します。柱のようだと言えば、しっかりと創り上げて安定させたこころを意味します。真理に達した人に他人が何を言っても、不安、疑問、疑い、などを入れることはできません。預流果に覚った人は、仏法僧という三宝に対する信を確立した人だとも言います。一般の人は三宝を信じていても揺らぎがあります。預流果に達したら信が確立する、揺らぎが無くなるのです。仏教の信とは、信仰ではなく、「確信」という意味です。

日々起こる様々な出来事によって、我々のこころが揺らぎます。悩み苦しみが生じます。誰かに頼りたくなります。しかし、こころ揺らいでいる人々も、妄想概念に頼っても、安心は得られません。悩みが消えて幸福には達しません。しかし真理を体得することで、安定したこころをつくった方々がいるならば、我々の頼りになります。その方々の力によって、こころを安定させて、幸福に達することもできます。真理を体得した人のこころが揺らがないという真理は、我々に幸福をもたらす言葉なのです。

第九偈

Ye ariyasaccāni vibhāvayanti
イェー、アリヤサッチャーニ、ヴィバーワヤンティ
Gambhīra paññena sudesitāni
ガンビーラ、パンニェーナ、スデースィターニ
Kiñcāpi te honti bhusappamattā
キンチャーピ、テー、ホンティ、ブサッパマッター
Na te bhavaṃ aṭṭhamaṃ ādiyanti
ナ、テー、バワン、アッタマン、アーディヤンティ
Idam pi Saṅghe ratanaṃ paṇītaṃ
イダン、ピ、サンゲー、ラタナン、パニータン
Etena saccena suvatthi hotu
エーテーナ、サッチェーナ、スワッティ、ホートゥ

深き智慧により正しく説かれたる
[四]聖諦を実践する者たちは、
たとい(後に)大いに放逸になろうとも、
八回目の[転]生を引き寄せること有らず。
此は僧(サンガ)が勝宝たる由縁なり。
此の真実により、幸いがあらんことを。

深い智慧ある人によって(gambhīra paññena)善く説き示された(sudesitāni)[四つの]聖なる諦を(ariya saccāni)明らかにする(vibhāvayanti)ものたちは(ye)、
たとい(kiñcāpi)彼らが(te)大いに放逸なる者たちと(bhusappamattā)なっても(honti)、彼らは(te)第八の(aṭṭamaṃ)生存を(bhavaṃ)取ることは(ādiyanti)ない(na)。
これも(idam pi)僧団における(saṅghe)勝れた(paṇītaṃ)宝(ratanaṃ)[である]。
この(etena)真実によって(saccena)幸せが(suvatthi)あれ(hotu)。

安心を確証された預流果

「お釈迦さまが深い智慧で教えたこの聖なる真理(四聖諦)を実践する人々は、たとえ怠け放題であろうと八回目の転生はしません。それゆえにサンガは勝れた宝なのです。この真実によって幸せでありますように。」
 
もし誰かが、お釈迦さまが深い智慧で教えたこの聖なる真理(四聖諦)を実践するならば、たとえその人が後で怠けに陥って生活しても、八回目の再生はありません。この真理の言葉も人々に幸福をもたらします。

再び預流果の境地が説かれています。お釈迦さまは、四聖諦の真理を正覚者の智慧によって発見しました。梵天・神々・魔・人間を含む一切の生命に、未だかつて発見できなかった聖なる真理です。その真理を各自で発見する方法もお釈迦さまが説かれるのです。弟子たちはその実践方法を行なって、まず四聖諦は真理であると発見します。この境地・この覚りを預流果と言うのです。預流果に達したら、輪廻転生は終了することになります。無始なる過去から生命は輪廻転生してきたので、一般的な言葉で「無限の過去」と言っても構わないのです。仏教は「無限」という言葉を用語として使いません。論理的に、無限という言葉は成り立たないのです。いくら過去を遡ってみても、さらに過去があるという意味で、「無始なる」という言葉にしています。始点は見つからない、という意味です。

私たちは精密に思考しない人間なので、曖昧な単語で考えてみましょう。生命に無限の過去があります。煩悩があるから輪廻転生しています。ということは、生命の未来も無限の輪廻転生になるのです。過去も無限で、将来も無限です。生きることは苦だと説かれているので、無限に苦しんで生きて今に至っているが、これからも無限に輪廻転生しながら苦しまなくてはいけないのです。ブッダの説かれた真理を実践してみると、輪廻とは想像を絶する苦の連続であると発見します。ブッダの説かれた四聖諦は真理であると発見します。最初に達するこの覚りは、預流果です。預流果に達した人は、「ブッダの教えは真理・事実である」と発見しますが、まだ幾つかの煩悩がこころの中に残っています。しかし、究極な幸福に達する道はブッダの教え以外に存在しないのだと発見しているのです。幾つかの煩悩が残っているから、死後、転生する可能性があります。しかし、心配はまったく要りません。たとえ人間として転生しても、七回までです。七回目の転生で完全な覚りに達して、解脱を経験する、輪廻を脱出するのです。

預流果に達する仏弟子たちは、皆が出家ではありません。たくさんの在家の男性や女性が預流果に達しました。しかしこの方々に、毎日修行ばかりをする暇はないのです。在家としてやらなくてはいけない仕事がいっぱいあるのです。ある人が一回修行して預流果に達したとしましょう。それから、修行することなく、ふつうの在家として生活しているとしましょう。しかしその人がたとえ怠けて生活していても、堕落したことにはなりません。真理を発見しているからです。さらに修行しなければ、こころに残った煩悩はそのままです。しかしこのような方々の将来の安全は、厳密に確証されています。死後、再び生まれることになっても、たった七回で完全に解脱に達します。無限に受けるはずの未来の苦しみが、七回の生まれに削減されたのです。

ある日、お釈迦さまがご自分の指の爪の上に土を載せて、比丘たちに尋ねました。「比丘たちよ、大地の土が多いか、爪の上に載せている土のほうが多いか」と。比丘たちは、「爪の上に載せている土はあまりにも僅かで、大地の土と比較にもなりません」と答えました。お釈迦さまは、「預流果に達した人が無くした苦しみは大地の土のように巨大で、残っている苦しみは爪の上に載っている土のように微量である」と説かれたのです。

大胆に命をかけて仏道に励まなくても、仏説は本当か嘘かと試す気持ちで少々修行してみても、その修行をまじめに行なうならば、預流果に達する可能性が大いにあります。預流果に達したならば、それから怠けて気楽に生きていても、一向に構いません。地獄に堕ちることは絶対にないのです。生まれ変わっても天界です。もし人間として生まれ変わるならば、多くても七回だけ。これが事実です。この真理も人類に幸福をもたらす言葉なのです。

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「宝経」法話 
Ratanasuttaṃ 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2002年9月