施本文庫

善に達するチカラ

忍耐・堪忍の本当の意味 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

最上の修行 

・khantī 忍耐とtitikkhā 堪忍です。 

人が心を清らかにしたいと思ったとします。それなら修行することですね。では修行として何を実践すればよいのでしょうか? お釈迦さまの答えは、「khantī  忍耐」と「titikkhā 堪忍」を実践することです。これから、この二つのキーワードを説明したいと思います。 

・忍耐と堪忍は同義語です。
・よく使われる語はkhantī――忍耐です。

「忍耐」は基本的な仏教用語です。

・時々、意味を強調するために、titikkhāとペアにします。
・khantīと同じ意味の、santī(śānti)という語もあります。

皆様、ヨーガなどに馴染みがあるでしょう。ヨーガしている人は「シャンティ、シャンティ」と唱えます。安穏・平和という意味で使っています。意味はkhantīと同じです。
仏教は誰よりも先に、修行の一環として「khantī」という言葉を使っていたのです。

ハードルを乗り越える人は成長する

成長するとは、どういうことでしょうか? 皆さまにも、それなりのイメージがあると思います。成長の意味が人によって変わると困ります。ある人が成長だという情況が、他の人から成長と認められなかったり、堕落だと見なされたりしたら、困るのではないでしょうか? 成長しようとしたところで、また人間どうしの対立が起きたならば、成長か退化か分からなくなります。
仏教が提案する成長は、人間に否定できないものです。たとえば、慈しみを育てることは成長の一部です。それを否定して、「慈しみはよくない。我々は互いに憎しみあわなければいけない」と言えるでしょうか? 実践するか否かに関わらず、慈しみは善いことであると、正常な人間ならだれでも認めるのです。
成長の道を集約すると、「心を清らかにすること」になりました。しかし、成長の道はそれだけでは止まりません。人は解脱に達するまで、覚りをひらくまで、実際に成長し続けなくてはいけないのです。

ハードルとは何か?

・成長にはハードルがつきものです。
楽を期待する人は、そのままです。

たとえば、子供にとって遊ぶことは楽でしょう。遊んで、遊んで、お母さんが作ったご飯を食べて、疲れたら寝る。それが一番楽な生き方です。そうやって子供に楽をさせたら、猿のままで人生が終わってしまいます。私たちは、どうしても楽を探し求めてしまいます。だから、人類はぶざまで、だらしないままなのです。楽を目指しているから、何もかも上手くいかない。楽を探し求める生き方は、たいへんな勘違いです。

いつでも、先ほどの子供の例を憶えておいてください。皆様は知っているでしょう、子供にとっての幸せは、遊ぶことと、甘いものを食べることと、寝ることでしょう。この3つをそこそこにしてもらわないと、人間としての成長はないのです。

子供が成長したということは、計算すると遊びを減らした結果なのです。子供が嫌々してでも、お母さんが怖いという理由でも、甘いものを減らすと体も成長するでしょう。疲れたら寝るのではなくて、怖いお母さんがそばにいるから、やはり宿題を頑張ってから寝るとか、そうやって少し苦労して、ちょっとしたハードルを乗り越えて、また次も乗り越えて、それで成長するのです。これは生命の法則です。どうにもなりません。

たとえば、しっかり生きられるのは、皆様が飼っている猫でしょうか? 野生の猫でしょうか? 野生の猫にはハードルが多いから、しっかり生きているのです。飼われている猫は、ブヨブヨに太って糖尿病になってしまいます。

少々でも成長したいと思うなら、そこに何かしらのハードルがあります。

このハードルは、自分が目指した成長にぴったり合っています。たとえば、勉強したいと思ったら眠くなるでしょう。その眠気に負けて、「いま少し寝て後で勉強します」と投げ出して、いま寝てしまうと、後で勉強しようと思っても、また眠くなるのです。そこで、「この眠気さえなければ勉強できたのに」と文句をいう結果になります。その人にとって、眠気は乗り越えるべきハードルだったのです。

たとえば、何かの選抜試験があるとします。何人か選ばれて何人かは落ちる。そこでハードルが2つあるのです。もし枠が5名の試験に100人が殺到したならば、自分が95人と戦って、95人の能力を乗り越えなければいけないでしょう。それで勉強もしなければいけない。ハードルが2つ現れているのです。

・それを越えたら成長です。

ですから、「達したい」と決めた目標の前に、それなりのハードルが現れます。突破したら成功なのです。95人よりも高い能力を発揮できたら、もう合格です。

・私たちには、どこまでハードル(障害)に立ち向かうことが出来るのでしょうか。

自分の心に訊いてみてください。「あなたはどんなところで音を上げますか?」と。「どんな瞬間で尻尾を巻きますか?」と。そこで成長はストップするのです。人がどこまで成長できるかというと、腰を下ろしたところまでなのです。ああもう嫌になった、もうこりごりだと思ったところで成長は終わり。

これは、人間の心理を見事に語っていると思います。「人間はどこまで成長できるのか?」という問いへの答えは、ハードルや問題、あらゆるトラブルに対して、「あなたはどこで音をあげるのか?」ということで決まるのです。

生きることも楽ではない

生きるということも同じです。仕事を成功させるとか、勉学を成功させるとか、そんな小さな話ではなくて、全体的に「生まれてから死ぬまでの生きることとはなんですか?」といえば、それもハードルを乗り越えることです。ハードルを乗り越えられなかったとき、死にます。

・毎秒、毎分、毎時、毎日、何らかの障害(ハードル)に直面して乗り越えること。それが生きることでもあります。

毎秒、毎分、毎時、毎日、何かが起こります。その障害を乗り越えていくのです。寒くなったり、暑く成ったり、体が痛くなったり、いろいろあるでしょう。息が苦しくなったり、食欲がなくなったり、食べ過ぎになったり……。
そうやって、人生にはいつでもハードルが現れるのです。

私は、そこに「呼吸すること」まで入れています。毎回、呼吸することもハードルです。呼吸しなかったら死にます。ちょっとでも息を止めただけで、ものすごく苦しいでしょう。呼吸を止めたら、体中に苦しみが生まれてくるから、呼吸をしているのです。それで終わりかというと、終わりません。苦しみは消えていないのです。また呼吸しなければいけない。それで体が疲れるでしょう。肺も、いずれは呼吸できなくなります。昔はその場で死んでしまいましたが、今は機械で無理矢理に酸素を入れてしまいます。それでも肺が壊れてダメになって、もう何をしても肺が酸素を受け取らないということになってしまうと、死にます。

そうやって、いつでも、ずっと苦しみがあって、私たちはその時々の苦しみをクリアするために挑戦し続けるのです。苦しみに対応できるか、できずに死ぬか、どちらかです。生きること自体、ずっと毎秒毎秒、現れる障害を乗り越えなければいけない。これが、理解してほしい現実です。
決して脅しているわけではなく、命とは褒め称えるに値しない、ただの終わりなき戦いなのです。

・この障害(ハードル)には終わりがありません。

生きるうえで現れる障害には、終わりがありません。たとえば、生きていくには金も必要でしょう。これには終わりがありません。どんどん物価が高くなる。品物は安心かどうかわからない。日本では経済成長というのは、物価が上がることだそうですね。私がずっと調べると、物価が上がって一般人に買えない状態になったら抜群な経済成長だそうです。そういうことだから、私は正直に経済成長しない方が国民は楽ではないかなと思ったりもします。それは措いて、金が要るということも障害です。これには終わりがないのです。

・徐々に障害(ハードル)が高くなる。

生きる上で、徐々に障害が高くなります。若いときは仕事をして金が儲かっているでしょう。年を取ってくると、年金生活になって収入がないのに、体を維持するためのハードルが高くなって余計に金がかかるようになります。車いすが必要になるし、普通の車ではどこにも行けなくなるし、あるいは寝たきりにってヘルパーを頼まなければいけなくなるし、相当お金がかかります。しかし、支払うお金はない。若いときは貯金もしたはずなのに。どうすればいいのでしょうか? そうやって、ハードルはどんどん高くなります。

・乗り越えられなくなって、最後に悔しく死にます。

わざわざ「悔しく」という言葉を入れたのは、あえて意図的にです。限りないハードルと戦っていたのに、ゲームのルールは「あなたはいくら頑張っても、最後に負ける」と決まっているので、どんどん高くなるハードルに対応できず、いずれ負けるのです。それが「死」です。だから、「悔しく死ぬ」ということになります。
死を迎えても、悔しく死ぬのではなく、幸福に成功者として死ぬこともできます。「ゲームは完了した。これ以上、やることは無い」という気持ちで死ぬのです。仏教はその道を教えています。要するに、成功に達する道です。

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善に達するチカラ
忍耐・堪忍の本当の意味 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2015年5月3日