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善に達するチカラ

忍耐・堪忍の本当の意味 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

俗世間のトラブル

俗世間のトラブルについて、ちょっと考えてみましょう。

・日常の諸問題への、私たちの対応は大事です。
・対応の仕方によって、成功したり、失敗したりします。
・対応を誤ると精神的・経済的・社会的トラブルが起きます。

どうして我々に経済問題があるのでしょうか? 人間関係や仕事、家族の間でも、なぜトラブルが起こるのでしょうか? 友人関係もスムーズに進みません。人には問題も悩みもけっこうあるものです。それはなぜでしょうか?

原因は、いたって簡単です。毎日、私たちが直面するハードルへの対応の仕方に何か問題があって、その結果として、悩み苦しみが生じたりトラブルが起こったりするのです。

たとえば、精神病とは何でしょうか? 誰でも日常、遭遇しなくてはいけない、ごく当たり前のハードルに対する対応の仕方を間違った結果です。人生とは、「失敗するのは当たり前」と言うべき戦いです。なのに、ひとつふたつの出来事に失敗したら、それを認められず、引きずってしまう。失敗と、それに伴った落ち込みの感情を、際限なく頭の中で再生し続けた結果、精神病にまで陥ります。そこまで悪化しなくても、誰にでも精神的な悩みはあります。それらも、人生の失敗への対応を誤まることから起こるのです。
災害に遭遇した方々が、PTSDという精神的な病気に罹る場合もあります。自然災害は普通の人間の力では如何ともしがたいハードルだと理解して、納得しなくてはいけないのに、それができなくなるのです。何も起きていない場合は、自然災害は乗り越えられないものだと誰でも知っています。しかし、自然災害が現実になった瞬間に、その理解が吹き飛んでしまう。そこから生まれた悩み苦しみを頭のなかで再現し続けると、PTSDにまで陥るのです。

実際のところ、私たちは毎日、災害に遭遇しています。しかし、正しく対応してそのハードルを乗り越えるから、あまり気にしないのです。対応しきれないケースについて、あえて「災害」と呼んでいるだけです。
対応できないハードルに対して、素直にその現実を受け止めればいいのに、どうして悔しがって落ち込むのでしょうか? 起きた出来事を受け入れたくないからです。さらに、その出来事への対応にも誤りがあるのです。これは皆が考えなくはいけない問題ですから、対応のしかたについて少々説明します。

親戚や家族が亡くなってしまった。これは耐えがたい災難です。自分に降りかかった大きな問題ですね。どう対応すればいいのでしょうか? 途方に暮れて落ち込む必要などありません。対応のしかたはいたって簡単です。「では、どうする?」と自分に訊けばいい。ただ、それだけです。

たとえば、ある人の奥さんと子供が3人亡くなったとします。耐えがたい悲しみでしょう。たいへんな問題にぶつかったのです。
そこで、自分に訊いてみます。「では、私はこの問題に対してどうしたらいい?」と。答えはすぐに出てくるでしょう。「何もできません」、それだけです。すごく失礼に感じるかもしれませんが、本当はこれが答えなのです。

この単純なポイントが、真理に基づいた正しい答えなのです。だから、訓練して準備しなくてはいけない。何か問題が起きたときに突然、「どうすればいい?」と自問自答しても、何の解決策も出てきません。
日常生活のなかで、たとえ小さくても次から次へと問題が起こります。つねに目の前に、何らかのハードルが現れます。日常起こる小さな問題、遭遇する小さなハードルに対して、私たちはその場その場で瞬時に対応して解決しています。だから、「問題が起きた。正しく対応して解決しました」という実感はないのです。要するに、「答えがある問題」は問題ではない、ということです。そこで、「自分の人生には何の問題も起きない」という錯覚で生きることになります。それである時、解決策を導き出さなければいけない問題に遭遇します。「人生は簡単だ」と思って解決策を導き出す訓練をしなかったから、その時になって、激しく悩んだり落ち込んだり失敗したりするのです。

人間のトラブルは、3つに分けたほうがよいでしょう。
①解決策がある問題。②解決策を導き出さなくてはいけない問題。③解決策がない問題。
①の場合は、YESかNOでじゅうぶんです。たとえば、子供が「父さん、十時半に学校に来て」と頼んだとします。父親は会社に行かなくてはいけないので、答えはNOです。解決策は、「お母さんに頼んで」になります。このタイプの問題は、皆そもそも問題にもしていません。
②の問題は、たとえばこんなふうです。十時半に、両親とも学校に行かなくてはならない行事がある。あるいは、必ず父親が参加しなくてはいけない行事がある。子供が「お父さん、十時半に学校に来て」と頼む。そこで父親は、解決策を導き出さなければいけなくなります。
問題③はこのようなケースです。親しい人が亡くなる。自分は悲しみに陥る。人が死ぬことは、誰にもどうすることもできません。自分の管轄として何かをできる問題ではない。要するに、答えは存在しないのです。もし答えが存在しない問題が起きたならば、それは問題ではないのです。老いること、死ぬこと、自然災害などに対しては、答えがありません。だから、それらは「問題」ではなくて、管轄外です。

私たちは、日常起こる問題に対して、「答えがあるから問題ではない」と思っています。それは間違いです。解決策があろうとも、問題は問題です。
皆、②と③を問題扱いします。③には答えがないのに、それで一生、悩み苦しむはめになります。問題ではないのに問題扱いして悩んだり落ち込んだりするので、皆どうにもならない精神状態に陥ってしまいます。落ち着いて冷静にいることができなくなるのです。②の問題に対しては、解決策を導き出すまでは悩むかもしれませんが、仕方ありません。それは解決策が見つかるまでのことです。

ブッダが発見した、「すべてのものごとは無常である。因縁によって生じる」という真理に基づいて、訓練してみましょう。生きるうえで私たちは常に、3種類の問題と遭遇します。その度、「どうすれば?」と自問自答するのです。「どうすれば?」とは、「あなたがどう対応したら、この問題は解決するのか?」という意味です。
①答えが必ずある日常茶飯事の問題であっても、それを乗り越える時には楽しみと充実感が生じます。②答えを導き出す必要のある問題を乗り越えたら、より強い充実感が生じるのです。③答えがない問題に対しては、「それは問題ではない。自然法則なのだ」という理解をすれば、落ち着いて冷静にいることができるのです。

人は闇雲に生きるべきではありません。日々遭遇する諸問題を、よく分別してみましょう。それから、つねに「どうすれば?」と自問自答する習慣もつけましょう。いまの社会で起こるほとんどの問題は、この対応のしかたで解決できると思います。これは理性と智慧に基づいた生きかたです。
ですから、訓練する必要があります。大げさに言うならば、「どうすれば?」とは、人生で起こる問題に足を引っ張られることなく、穏やかに安穏に生きるための呪文なのです。
蛇足になりますが、呪文とは一万回、百万回というふうに唱えるものです。それと同じく、この呪文も日々、使用しなくてはいけないのです。結果として、人生に起こる一切のトラブルに対して、正しい対応ができるようになります。

「こうすればよかった」は悪魔の誘惑

人は「どうすれば?」ではなく、「こうすればよかった」と悩むものです。現在形であるべき呪文を過去形にするのです。それなら、いくらでも悩めます。不幸のどん底に陥ることもできます。生き地獄を簡単に作れます。
だから、「どうすれば?」は真理に基づいた言葉で、「こうすればよかった」とは悪魔の誘惑であると、区別したほうが皆様のためになるでしょう。

「どうすれば?」と自問自答すると、①こうすればよい。②放っておいたほうがよい。③いま解決しないで、適切な時期まで保留したほうがよい。④どうすることもできないので無視したほうがよい、問題にしないほうがよい……このように対応策が見えてくるのです。

必要ではないと思いますが、具体的な例を出して説明します。災害で家族が亡くなって、自分一人が生き残ったとしましょう。その人は「なぜ私だけ生き残ったのか、子供の代わりに、年寄りの私が死んだほうがよかったのではないか」と、悩んだり悲しんだりする。現実を受け止めて、冷静に生きてみるしかないのに、それができなくなる。先ほども言いましたが、解決策のない出来事は、「問題」ではなくて管轄外です。しかし、人々には真理に基づいた訓練がないので、悲嘆に暮れることも避けられないのです。

災害が起きたら、たくさんのボランティアが人助けに駆けつけます。しかし、悩みに陥っている人々は、親切な助けを拒否するのです。若者はボランティア活動に行きますが、精神指導者ではありません。自分が差し伸べた手を苦しんでいる人々に拒絶されると、がっかりしてボランティア活動もやめたくなるのです。ご飯も食べず寝込んでいる人に差し入れを拒まれたら、「仕方がありません」と無視するわけにもいかない。そこで被害を受けた人だけではなく、助けに行った人にも新たな悩みが生じるのです。

仮設住宅に生活する破目になったとしましょう。当然、家が流される前の生活に比べれば、いまの生活は不便です。過ぎ去った昔の生活を思い出すたびに、どんどん苦しくなります。
そうではなくて、「この狭い処でどうすれば楽しく過ごせるのか?」と自問自答してみましょう。これは「過去のことは忘れろ」という話ではないし、そんな必要はありません。しかし、過去をひきずって、ああすればよかった、こうすればよかったと悩むことは危険だといいたいのです。それは「悪魔の誘惑」です。後悔してはいけません。後悔は悪です。
私たちは、「いま、どうすればよいか?」という問題だけに、真剣に対応しなくてはいけないのです。

・怒り、恨み、嫉妬、落ち込みなどで、問題が悪化することもあります。

心が汚れていると、怒り、欲、恨み、嫉妬、落ち込み、舞い上がり、高慢、傲慢、卑下慢といった感情が割り込むと、対応を間違ってしまいます。

たとえば、よく儲け話で株を買ったりするでしょう。「奥さんは何もする必要はありません。ここにサインをして送金すれば十分です。利益は2週間後に入りますよ」と。それで楽な話だと思ってサインをして、お金を渡す。ハンコと一緒に通帳を渡す。それから警察に駆け込んでも後の祭りです。犯人が見つかっても、お金は返ってこないでしょう。欲のせいでトラブルに巻き込まれてしまったのです。

会社でも、学校でも、競争社会だから、仲間同士でも競争しなければならない、という悲しい状況があります。会社でも同僚の間で、微妙な隠れた競争があるものです。だって、誰でも昇格したいですから。みんな菩薩ではありませんからね。「どうぞ、あなたから昇格してください」なんてことを言ったら、家に帰ってから奥さんに殺されかねません。

だから、我々は否応なしに仲間同士でも競争する社会に生きているのです。これはどうしようもありません。これも、私たちにとって一つの障害でありトラブルです。対応しなければならない問題なのです。

そこで、怒りに駆られて仲間を憎んだり、嫉妬したりするとアウト。もう負けです。裏で足を引っ張ってやろうと思うのもダメです。ばれたらすべて終わりですし、裏で足を引っ張ろうとすることも怒り憎しみでしょう。

そういうわけで、問題に対応しようと思ったとき、心に欲、怒り、嫉妬、憎しみ、恨みなどがあると、あなたは対応を誤ります。対応を誤ったら、新たな苦しみ、新たな問題が起きて酷い目に遭います。ひとつの問題に直面した人が、対応を間違えると、問題が1万くらいに増えてしまいます。問題は、細菌のような勢いで増殖します。そうした事態を防ぐためにも、「正しい生き方」が示されているのです。

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善に達するチカラ
忍耐・堪忍の本当の意味 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2015年5月3日