施本文庫

善に達するチカラ

忍耐・堪忍の本当の意味 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

第三章 堪忍とは障害・邪魔を巧みに避けること

titikkhā・堪忍で障害を避ける

ハードル(hurdle)とは乗り越えるべきものです。ハードルがなければ成長もないので、必要なのです。
それに対して、障害(obstacle,obstruction)とは「邪魔」です。それは避けるべきものです。障害に引っかかってしまうと、先に進めなくなります。人格向上を歩む道にも、障害が現れます。それを避けるのです。障害を避けること、悪条件を避けることはtitikkhā・堪忍と言われます。
エベレストへの登頂途中で、吹雪に襲われると分かったら、登ることは一旦やめて、テントの中で身を守るべきです。吹雪に向かって戦ってやるぞと進むものではありません。

仏教の文脈において、titikkhā・堪忍とは「怒り」への対応になります。
俗世間でも、生きている時はけっこう邪魔が入るのです。反対されたり、非難を受けたり、虐め、侮辱、暴力、弾劾を受けたりもします。そのとき、腹が立ってしようがなくなるものです。相手を潰したくなるものです。でも、そんなことをしたら、自分の人生はダメになって、前に進めなくなります。
だから、世界から降り注ぐ障害を避けることにします。怒らないのです。戦って潰そうともしないのです。山歩きの途中で、熊がいる気配を感じたとしましょう。そこで、熊を見つけて退治するぞと思ったら、自分が退治される可能性もあります。
であれば、熊が生息する処を避ければいいでしょう。それは障害を避けることであって、決して「我慢」しているわけではないのです。

仏教の世界から例を出しましょう。修行者は一日一食だけです。托鉢に出ても食事を頂けないかもしれません。そういう日は、空腹感を気にせず修行を進めればいいのです。在家の人びとに対して嫌な気持ちを抱いたり、明日は托鉢に行く村を変えてみようかなぁと妄想したりすると、心が汚れるので修行の損です。
森の中で冥想に入ったら、蚊に刺されたり、冷たい風に晒されたり、獣の唸り声が聴こえたりします。それらを気にしないで、修行を続けます。仏教の修行に励んでいると、俗世間の人びとから批判されたり貶されたりすることも結構あります。それも決して気にしません。世間から来る邪魔を受け止めないで避けることがtitikkhā・堪忍なのです。

耐え忍ぶべき事柄は、すべての人々に平等に現れるものではありません。仏教徒が修行者をとても大事にする社会では、衣食住薬について困らないように面倒を見てくれることもあります。その場合は、耐え忍ぶべき事柄は少ないはずです。日本で誰かが修行することにしたとします。家族と友人たちが、「宗教には大反対だ」と邪魔するかもしれません。titikkhā・堪忍が必要になるところです。
khantī・忍耐の場合、乗り越えなくてはいけないハードルは自分の心に現れます。俗世間的な例を出すと、人がランクの高い大学に入りたいという目標を設定したら、乗り越えるべきハードルは大学ではなく自分の心になかにあるのです。怒らないことにしようと決めた場合も、怒りは自分の心のなかから湧くので、ハードルは「自分の心」なのです。人格向上する過程で現れるハードルは、皆に平等です。乗り越えたところで、解脱に達します。
しかし、解脱に達するためには必ず世間の攻撃を避けるべき、という条件はありません。そんな条件があったら、修行者を気持ちよく応援する社会では、誰も解脱に達することはできなくなってしまうでしょう。

堪忍がなければ人生に負ける

 堪忍がない人の特徴は、

・怒り、憎しみによって破壊される。
・他人を攻撃する。
・雨風にさえも不平不満を言う。

このようなタイプの人間が、あるいは思い当たるかもしれません。何にでも不平不満ばかり言いふらす人は、何ひとつもまじめにやり遂げられせん。周りの人々のやる気まで殺いでしまいます。このような人々は、自分はものごとを知っている、何でも完璧にできる人間だと演じようとしますが、気弱なのです。何もできないことを不平不満で隠しているのです。このような人々には、titikkhā・堪忍が欠けています。

・すべて他人のせいにしたがる。

学校の先生のせいで勉強ができなかったとか、お母さんが仕事をしていたから勉強ができなかったとか、私が小学生のとき両親が離婚したから勉強ができなかったとか、よくもまあ屁理屈を言いふらすものです。
やる気さえあれば、自分に負けたくはないと思うならば、人は自分がやるべきことをやり遂げるものです。学校の先生方の性格が悪くても、それに構わず自分の勉強するのです。親が離婚して経済的に苦労しても、勉強したい人は友達から本を貸りてでも勉強するものです。人生にトラブルはつきものです。それに対応するのが人間の務めです。

悪状況に負けないで、怒りで反応しないで精進して進む。悪い状況を正しく判断して、対応の仕方を発見する。対応の仕方はさまざまです。
たとえば、学校の教育レベルが低い。先生たちもいい加減。仲間も勉強する気が全くなくて、他の生徒を苛めることを専らにしている。この場合は自分一人ではどうにもならないので、転校すればよいと思います。寒さ・暑さなどに対しては適切に対応することです。このようなケースを考えましょう。家は経済的に貧しい。冬ですが、母親は暖房をつけるなよと言っている。しかし寒くて勉強はできない。この場合は、図書館など公の場所に行って勉強すればよいのです。
このように悪状況に対応する仕方はさまざまであると理解しておけば、自分の人生を障害に負けず前進させることができます。このような対応に使う仏教用語がtitikkhāです。

忍耐があれば堪忍もついてくる

khantī・忍耐はすべての生命に現れる課題です。それは自分の精神の弱みと戦うことです。人は精神的に強くありません。だからこそ、khantī・忍耐を実践して強くなるべきなのです。
titikkhā・堪忍とは、外から降りかかる悪い状況を耐え忍ぶこと。悪い状況は、すべての生命に平等に現れるわけではありません。よい環境に恵まれて生活する人びともいます。忍耐があれば、堪忍もおまけについてきます。
だから我々は、忍耐とは何かと学ぶべきなのです。仏道を歩む人々に欠かせない条件の一つが、忍耐です。忍耐を実践するに連れて、堪忍は徐々に備わってきます。だから、堪忍も実践しなさいと、あえて言うことはしません。ブッダの教えのなかで強調されているのは、khantī・忍耐なのです。 

・khantīには「落ち着く」という意味もあります。
・忍耐という意味だけではありません。
・何が起きても、こころを常に冷静に保って、
 自分が決めたことを全うするように、
 理性に基づいて努力する。

これがkhantīです。

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善に達するチカラ
忍耐・堪忍の本当の意味 
著者:アルボムッレ・スマナサーラ長老
初版発行日:2015年5月3日