智慧の扉

2011年9月号

努力と不安の不思議な関係

アルボムッレ・スマナサーラ長老

「精進・努力」すること、そして、「理性的な恐怖・不安」を感じること。その二つを備えた人が覚りに達するとブッダは説かれました。「理性的な恐怖・不安」を無くした結果、起きたのが東京電力の福島第一原発事故です。日本の原発技術は世界一という安全神話に目を覆われて、原発事故で史上最悪の汚染を招いてしまったのです。根拠のない「安全神話」は極端に無知な誤魔化しです。

この世界で、決して安心するものではないのです。不安があるのは当たり前。心から不安感が無くなったら覚れないし、一秒たりとも生きて行くこともできません。感情的な恐れは無用ですが、客観的に世界を観察して感じる理性的な不安は生きるために不可欠です。理性でちゃんと情報を集めて不安になるのは良いことであり、健全なのです。仏教は、「おのれの心は信頼できない」と言っています。だったら、国を信じるとかメディアを信じるとか、お話にもならないのです。

パーリ語の「精進・努力」(ātāpī)と「理性的な恐怖・不安」(ottappī)はダジャレのように読みが似ていますが、意味も似ています。心理学的にも、何らかの恐怖心、やばいという不安な気持ちがないと、人は精進・努力できないのです。仏教の修行が進んで、「生命はどこに生まれても苦である。輪廻とは極限にやばい、危険なものだ」という智慧が生じた瞬間に、解脱に達するための精進・努力が起きて、その人は輪廻から解脱するのです。

「精進・努力」(ātāpī)と「理性的な恐怖・不安」(ottappī)が人格向上の鍵であるという事実は、俗世間の道徳から最終的な解脱まで、一貫しているのです。