ジャータカ物語

No.25(『ヴィパッサナー通信』2002年1号)

キンパッカの果実の話

Kimpakka jātaka(No.85) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ある修行に身が入らなくなった比丘について語られたものです。

ある良家の息子が、純粋な帰依の気持ちから仏道に入りましたが、ある日、サーヴァッティーに托鉢に出掛けたとき、一人の美しく着飾った女性を眼の当たりにし、それが原因で修行に身が入らなくなってしまいました。そこで彼の阿闍梨と和尚は、お釈迦さまのもとに彼を連れて行きました。

お釈迦さまが、「比丘よ、あなたは修行に身が入らなくなったそうですが、それは本当ですか?」と尋ねられると、「本当です」と答えたので、お釈迦さまは、「比丘よ、五欲は、享楽しているそのときには気持ちのよいものですが、しかしそれらを享受した結果、地獄などの苦しい境遇に陥るもとになります。だから、それはキンパッカの果実を賞味するようなものです。キンパッカの果実は、色・香り・味ともに良いのですが、食べると内臓が破れて、命を失ってしまいます。以前に多くの人々がその害毒を知らずに、色・香り・味に惑わされ、この果実を食べて命を失ってしまったのです」と言われて、過去のことを話されました。

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その昔バーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は、隊商主となり、五百輛の荷車を率いて東方の国から西方の国に行きました。そして森の入口に来たとき、人々に招集をかけて、「この森には毒の樹があります。だから、今まで一度も食べたことのない果実は、私に相談しないうちに食べてはいけません」と命じました。

人々は、森に入ると、森の端の所に一本のキンパッカの樹を見つけました。その枝は実がたわわになっているために、その重みで撓んでいました。その幹・枝・葉・果実は、形・色・味・香りがちょうどマンゴーの樹に似ていました。彼らのうちのある者は、色と香りと味に惑わされ、マンゴーだと思ってその果実を食べてしまいました。またある者は、「隊商主に相談してから食べよう」とそれを食べずに持っていました。

菩薩である隊商主は、その場所を通りかかると、果実を食べずに手に持っていた者には、それを捨てさせ、食べている者には、吐き出させて薬を与えました。彼らのうちの幾人かは助かりましたが、最初に食べてしまった者は生命を失いました。

菩薩である隊商主はその後、予定の場所に無事に行き着いて利益を得たのち、再び自分の故郷へ還り、布施などの善行為を行ない、その業に応じた所へ生まれ変わって行きました。

お釈迦さまは、この出来事を語られてから、悟りをひらいた人として、次のような詩句を唱えられました。

後から来る災厄を知らずして
諸欲を放縦にする者には
放縦の結果が熟すると
苦悩が訪れる
あたかもキンパッカの実を食べた者のように

「このように、諸欲は享楽しているときは楽しいものでも、それが実を結ぶときには苦しむものである」と、教えを関連づけてから、四聖諦を説き明かされました。修行に身が入らなくなった比丘はやがて預流果に達し、他の比丘たちも、ある者は預流果に、ある者は一来果に、ある者は不還果に達し、またある者は阿羅漢果に達しました。

お釈迦さまはこの説法をされて、過去を現在にあてはめられました。「そのときの隊商の人々は、今の仏弟子たちであり、隊商主は実にわたくしであった」と。

スマナサーラ長老のコメント

【この物語の教訓】
<五欲の享楽>

人は皆、「この世は楽しい」と一般的に思っています。「生きていて良かった」「自分は幸せだ」「人生を謳歌している」という言葉はよく聞こえてきます。

しかし、人生を楽しんでいるにもかかわらず、「楽しみとは何でしょうか」「生きる喜びとは何でしょうか」と具体的に聞かれると、答えられる人はほとんどいないようです。時々、「望みが叶ったこと」「自分の希望どおりの職に就けたこと」「結婚相手が見つかったこと」「子供や孫が生まれたこと」などのように、具体的な例を挙げる場合もあります。でも、人類にとって幸福とは何なのか? という問いに、普遍的な答えを出すのは難しいようです。

仏教では、眼・耳・鼻・舌・身の五つを、形や色・音・香り・味・感触という五つで刺激することを「欲」だと言っているのです。一般的に「幸せだ」「楽しい」などと言うのは、実際には眼・耳・鼻・舌・身で感受する、五つの刺激のことを言っているのです。そういう真理の見方から仏教では「欲」を戒めています。それなのに、非合理的な人間が、「ブッダは、折角自分たちが生きる喜びとしている家族や金を、『捨てよ』と言っているのではないか」と、不機嫌になります。しかし、ただ単に持っている金を捨てるだけでは、家族を捨てて逃げるだけでは、欲を捨てたことにはなりません。金を持っていない人、家族を持たない人は、欲から離れている人というよりは、ただの不幸な人ではないかと言えるだけです。

欲を捨てるということの意味は、眼・耳・鼻・舌・身に依存して生きることを止めて、より高度な目的で生きることです。眼・耳・鼻・舌・身を刺激することのみが幸福な生き方だと思っている全ての人々は、激しい依存症を病んでいるのです。立ち上がることがまったく出来ない、欲という泥沼に溺れて、もがいているのです。

欲というものは、糖衣に包まれた猛毒のようなものです。中毒を引き起こす麻薬も初めて使うときは刺激的で楽しいものですが、ひとたび依存に陥るとその人を破滅にまで追いこむのです。人が無始なる過去から、眼・耳・鼻・舌・身の刺激に依存して、超越した道を発見出来なくなっているのです。形も色も香りも味も、マンゴーに似ている、キンパッカの実が人を苦しみの罠にはめたのです。

表面的に見るだけでは、五欲それ自体に何の悪いところもありません。五欲は、美しい、楽しいものです。しかし、五欲依存症者は、それを得るためにどんな悪事でも犯します。強盗も、親を殺すことも、戦争を起こすことも辞さないのです。その上そういう人は心の成長ということには、まったく縁がないのです。

【参考】
この物語と大変よく似たジャータカがもう一話あります。phala jātaka(No.54)ですが 、ここには菩薩が毒のある果実を識別した根拠が詩句の形で出てきます。「この木に攀じ登ることは難しくない。村から離れてもいない。 果実は美しく熟しているが、採る人がいない。それによってこの果樹は良いものではないと私は知った」という内容です。

このように論理的で冷静な菩薩の判断力は、このジャータカの教訓が持つ説得力をいっそう高めていると思います。