ジャータカ物語

No.1(『ヴィパッサナー通信』1999年12号)

兎の話

Sasa jātaka(No.316) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

この物語は、釈尊が祇園精舎におられたとき、お説きになったものです。
ある在家信者が七日に渡って釈尊と比丘たちに食事の布施をして、最後の日に、出家生活の必需品全てを揃えてお布施しました。釈尊と比丘たちに布施をできたことで、彼が限りなく喜びを感じていました。彼をさらに喜ばせてあげようと思った釈尊が、兎の話を説きました。

その昔、菩薩(釈尊の前世のことです)は兎として生まれ変わりました。その兎は、猿、キツネ、カワウソという三匹の友達と森の中に住んでいました。兎は菩薩の転生でしたので、普通の動物と違って智慧がありました。

彼らは、昼は各々えさを探しに別に行動していましたが、夜は一緒に集まりました。その時兎は、悪いこと、ずるいことをしてはいけないと戒の話を、また、自分だけ良ければいいという生き方ではなくて、他人のことも心配するべきですよと布施の話を、また、生きているものとして道徳的でモラルを守るべきですよと修行の話などを、よくしていました。

ある満月の日、兎は修行しようと思いました。三匹の友人も誘いました。皆、大変喜んで修行することに決めました。修行してもお腹が空くので、まずえさを探しておこうと思ったのです。

兎は、「今日は修行中だから、えさをひとりで食べるのではなく、誰かに一部をあげてから食べなさい」と、注意しました。

そこで、カワウソが川で人が魚を釣ったものを見つけました。キツネは畑仕事の人々が食べ残した肉とチーズのようなものを見つけました。猿は木からマンゴーを取って来ました。兎は草を食べればよいので、食べ物を貯蔵する必要はありませんでした。

その代わりに、大きな悩みが出てきました。食べる前に布施をしなくてはならないと自分で決めたのに、草を乞うてくる人はまずいないでしょう。三匹の友達の食べ物は人間も食べるので、簡単に施しをできるでしょう。何か自分が偽善行為をやっているような気もしました。

「偽善になってはたまらない。誰かが食を乞うて来たら、この身体をあげます。兎の肉を食べたがる人は、いくらでもいるでしょう」と、覚悟を決めました。

兎は、修行のために命まで賭けました。天国(帝釈天)にいる天の王・サッカはこれに驚きました。

皆が正直かどうか試してやろうと、乞食に変身して、一匹ずつ訪ねました。カワウソもキツネも猿も、喜んで自分のえさの一部ではなく、全部施しました。

サッカは「後で来ますから」と言って、えさを返して兎のところに行きました。

(そして)「何か食べ物をください」と、兎に頼みました。

兎は、「それは良かった。誰にでも真似できないほどすばらしい施しをしますので、薪を拾って火をおこして下さい」と言いました。

サッカは自分の神通力ですぐ、ごうごうと燃え立つ火を作りました。

兎は身体についている虫を落とすために身体を振って、火の中に飛び込みました。

身体が丸焼きになると思っていたのに、この火は熱いどころか異常に涼しかったのです。

兎は乞食に尋ねます。「善人よ、あなたの火は威勢がよいのですが、私の毛一本も燃やせるほどの熱はありません。あまりにも涼しいのです」

サッカ天は答えて曰く、「賢者よ、私は乞食ではありません。あなたの修行にかかる気持ちはどれほど正直かと試すために、天から降りたのです」。

サッカは、「善行為を行うことは、どれほど大事かと後世の人々に知らせてあげます」と思って、山を絞り、液体を出して(溶岩では?)、月に兎の形を描き遺しました。

この話を聞いて、お布施した在家信者が大変喜びを感じて、また真理を理解しました。

スマナサーラ長老のコメント

良いことは、我が身も惜しまないでやるべきです。
人類に遺るのは、日常やっているマンネリの生き方ではなく、すばらしい善行為だけです。
この物語の筋は、右の戒めではないかと思います。