ジャータカ物語

No.27(『ヴィパッサナー通信』2002年3号)

水浴場の話①

Tittha jātaka(No.25) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

この物語は、釈尊がジェータ林におられたときに、法将サーリプッタ長老の弟子で、かつて金細工職人をしていた一人の比丘について語られたものです。(※1)他人の、意向と随眠煩悩を分別する智慧は、仏陀たちにのみあるもので、他の者たちにはありません。サーリプッタ長老には、他人の意向と随眠煩悩を分別する智慧がなかったため、その弟子の性格や気質が解らず、不浄の観想法ばかりを指導しました。しかしそれは、この弟子にはふさわしくありませんでした。なぜかと言えば、彼は五百の生涯にわたって次々と金細工職人の家にだけ生を享けたので、彼には長いあいだ清浄な金を見ることだけが積み重なっていたため、不浄ということがふさわしくなかったのです。それで彼は、悟るどころか不浄という本質に集中することさえできないまま、四ヵ月が過ぎました。

サーリプッタ長老は、自分の弟子に阿羅漢果の悟りを授けることができないので、「きっとこの者は、お釈迦さまに教導して頂くほうがよいのであろう。如来のお側へ連れて行こう」と考え、朝早く彼を連れてお釈迦さまのもとへ行きました。お釈迦さまは、「サーリプッタよ、何故あなたはその比丘を連れてきたのですか」と尋ねられました。「尊師よ、私はこの者に観想法を授けましたが、四ヵ月たっても、悟りの兆しさえあらわしませんでした。そこで私は、『この者は、お釈迦さまに教導して頂くほうがよいのであろう』と考え、お釈迦さまのお側へ連れてまいりました。」「ところで、サーリプッタよ、あなたは、どのような観想法を弟子に授けたのですか。」「世尊よ、不浄の観想法でございます。」「サーリプッタよ、あなたには生きとし生ける者の性格や気質を知る能力がありません。あなたは行きなさい。そして夕刻に戻って来れば、あなたの弟子を連れて帰ることが出来るでしょう。」

こうしてお釈迦さまは長老を送り出してから、その比丘に快適な住居と法衣を与えさせ、托鉢に出掛けるときも彼を特別に連れて行きました。そして頂いた美味のご馳走を彼に食べさせました。大勢の僧団の比丘たちを従えてふたたび僧院へ戻られたお釈迦さまは、昼休みに入られました。夕刻になって、その比丘を連れて僧院を散策されているとき、マンゴー林に一つの蓮池を神通力で出現させ、その中に大きな美しい一叢(むら)の蓮を、さらにその中にひときわ目を引く大きな一本の蓮の花を出現させました。そして、「比丘よ、こちらに座ってこの花を鑑賞しなさい」と言ってから、居室に戻られました。

その比丘は、この花を繰り返し見つめていましたが、世尊はその花を萎れさせました。蓮の花は、彼が見ているうちに、萎れ、色褪せてしまい、その縁のほうから花弁が落ち、瞬く間にみな落ちてしまいました。それから、おしべが落ち、めしべだけが残りました。比丘は、それを見ながら考えました。「この蓮の花は、たった今美しく見栄えがしていたのに、その色は衰え、花弁とおしべが落ち、めしべだけになった。このような蓮にも老いが来るというのに、私の身体にどうして老いが来ないことがあろうか」と。そして、「形成されたものは、すべて無常である」とありのままに観るヴィパッサナーへと心が辿り着きました。

お釈迦さまは、彼の心がヴィパッサナーに辿り着いたことを察知され、居室に坐ったまま、この詩句を唱えられました。

秋の蓮を手折るように
自己への愛着を断ち切れ
仏陀の説かれた平安の道へ
涅槃へ進め

詩句が終わると、この比丘は、阿羅漢果の悟りに到達し、「ああ、私は輪廻から脱出した」と確信し、その喜びを次のような詩句によって発しました。

修行を終えた彼の心は満たされている
煩悩が尽き
最後の身体を持っている
戒は清浄になり
感官は落ち着いている
月触(陰、ラーフ)から抜けでた
月のように
無明の巨大な暗闇を消し去り
すべての汚れを余すことなく根絶した
数千の光線を放ち
天空に輝く太陽のごとく
己の心は輝いている

その比丘は世尊に礼拝しました。サーリプッタ長老も戻って来て釈尊に礼をし、自分の弟子を連れて帰りました。やがてこの出来事が、比丘たちのあいだに知れわたりました。比丘たちは講堂で、「十の力をもつ人」のすぐれた特質を次のように賞賛しながら坐っていました。「友らよ、サーリプッタ長老は他人の意向と随眠煩悩を分別する智慧がなかったので、自分の弟子の性格や気質を知らなかった。ところが、師はたった一目でそれを知り、彼を、特別な能力を具えた阿羅漢の境地に導かれた。ああ、仏陀たちは、まことに偉大な威力をもっておられるものだ。」

するとそこへお釈迦さまが来られ、用意された座に坐り、「比丘たちよ、今どのような話のために一緒に坐っているのですか」と尋ねられました。「世尊よ、他のことではございません。世尊が、サーリプッタ長老の弟子の性格や気質を知られたことについての話のためでございます」と比丘たちが答えると、お釈迦さまは、「比丘たちよ、これは希有なことではありません。この私は今、仏陀となって彼の意向を知っていますが、前世でも、私は彼の意向を知ったことがあるのです」と言って、過去のことを話されました。(次号に続きます)

スマナサーラ長老のコメント

【注(※1)】Āsayānusayañāṇaṃ=他人の意向(アーサヤ)と随眠煩悩(アヌサヤ)を分別する智慧

アーサヤは、煩悩です。心に棲みついているという意味で、アーサヤといいます。人の意向・性格などはアーサヤによって形成されます。煩悩は誰にでもありますが、だからといって人はみな同じということにはなりません。煩悩が性格として現われて、「個人」「個人差」というものを形成するのです。アーサヤによって、性格の表層が作られるのです。これは誰でも知っている「人の性格」というものです。

アヌサヤは、潜在煩悩です。表面に現われることなく、心の中で随眠状態を保つのです。ですから、誰にも知り得ることはできないのです。アヌサヤは性格の深層ですが、探っても見つからない性格ですので、深層ではなく「裏層」と言った方がいいかもしれません。例えば、「まさかあの人が」というような、人の意外な行動を目にして、我々が理解に苦しむことがあります。そのときは、潜在煩悩の一部が目覚めて表層になったということです。仏陀は、表層に出ない限りは知り得ないこの性格も読み取るのです。この能力は仏陀に限るもので、現代心理学の方法を駆使しても、この潜在する性格を見出すことはできません。

人の心の働きを読み取る「他心通」(para citta vijānana)は、悟りをひらいた弟子たちにもあったのです。しかし表面には一向に出てこない性格までは読めなかったのです。この智慧の力で、仏陀は人の性格に完全に合うような指導をされたのです。

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