ジャータカ物語

No.29(『ヴィパッサナー通信』2002年5号)

共同墓地を忌み嫌ったバラモンの話

Upasāḷha jātaka(No.166) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

この物語は、釈尊がジェータ林におられたとき、ウパサールハカという名の、墓場を忌み嫌うバラモンについて語られたものです。

彼は大金持ちで資産家でしたが、外道の教えを信奉していたので、近くの精舎に住んでおられるお釈迦さまのもとに参じることはありませんでした。彼には、賢くて智慧をそなえた息子がおりました。年老いた彼は息子に言いました。

「ねえ、息子や、身分の賎しいものが火葬になった墓場で私を火葬にしないでおくれ。どこか清浄な墓場に私を葬っておくれ」息子は「父上、私はあなたをどこに葬ったらよいか知りません。私を連れていって、ここに葬ってほしいという場所を言って下さい」と言いました。バラモンは、「よろしい、息子よ」と言って、息子をつれて町から出て、鷲峰山の頂上に登り、「息子よ、ここは、賎しい身分のものは火葬にされたことの無い場所だよ。だからここで私を火葬にしておくれ」と言って、息子と一緒に山から降り始めました。

お釈迦さまは、その日の朝早く、悟りを得られる資質のある親族をながめられたとき、この親子に預流果に向かう資質があることを見いだされました。そこで、山の麓に行き、親子が山の頂上から降りて来るのを待っておられました。

やがて彼らは降りて来て、お釈迦さまに出会いました。お釈迦さまは挨拶して、「バラモンたちよ、どこへ行ってきたのですか?」とお尋ねになりました。若者はこのいきさつをお話ししました。お釈迦さまは、「それでは来なさい。まず、お父さんが言った場所に行きましょう」と、親子をつれて山の頂上にのぼり、「どの場所ですか?」とお尋ねになりました。若者は、「尊師よ、父はこの三つの小高い山の中間を指さしました」と答えました。お釈迦さまは、「若者よ、おまえのお父さんが墓場を忌み嫌ったのは今だけのことではありません。以前にも、墓場嫌いでした。この場所で火葬にしてくださいと、おまえに言ったのは今だけではなく、以前にもまたこの場所で自分を火葬にするようにと頼んだのです」と言って、彼に請われるまま過去のことを話されました。

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その昔、このラージャガハで、父はやはりウパサールハカ・バラモンであり、またこの息子も、やはり彼の息子でありました。そのとき菩薩は、マガダ国のバラモンの家に生まれて、学芸を完全に身につけ、仙人として出家し、神通と禅定とを修得して、禅定の楽を享受しながら、ヒマラヤ地方に長らく住み、塩と酢を求めるため鷲峰山の草庵で暮らしていました。

そのときも、かのウパサールハカ・バラモンが、今世の物語と同じように息子に告げると、息子は、「私にあなたの好みの場所を言ってください」と言いました。バラモンはこの場所を告げ、息子といっしょに山を降りる途中で菩薩である仙人に会い、彼に近づいていきました。

仙人は、やはり同じように尋ね、若者の言葉を聞いて、「さあ、いらっしゃい。おまえのお父さんが告げた場所が、不浄であるか、清浄であるかを見てみよう」と言って、彼らとともに山の頂上にのぼり、「この三つの小高い丘の中間が、清浄であります」と若者が言うと、「若者よ、この場所で火葬になった人々の数にはかぎりがない。おまえのお父さんはこのラージャガハのバラモンの家に生まれて、ウパサールハカという名前をつけられ、この山のなかで、一万四千回も火葬になっているのだよ。火葬が行われたことのない場所とか、墓場ではない場所、骸骨でおおわれたことのない場所など、見つけることができないのだよ」このように、過去を知る智慧によって断言してから、次の二つの詩句を唱えました。

この地で荼毘にふされた人々のうち
ウパサールハカ姓の者が
一万四千人もいる
「不死」は
この世にありえないものである
聖者は真理(法)に至り
平和主義に徹し
自己の節制を具えている
この世でこれこそが
「不死」である

このように、仙人は、親子に法を聞かせてから、四つの崇高な境地である「四梵住」(慈・悲・喜・捨)を修習して、梵天の世界に生まれました。

お釈迦さまはこの説法をされた後、「四聖諦」を明らかにされ、真理の説示が終わったとき、親子は、預流果の悟りに達しました。そしてお釈迦さまは、連結をとって過去を現在にあてはめられました。「そのときの親子はいまの親子であり、仙人は実にわたくしであった」と。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

「自分だけは他人と違う」と、人は簡単に思ってしまうのです。Upasāḷhakaは、他人よりも自分が上だと高慢に思っていましたが、実際にはその勘違いのせいで普通の人々よりも愚かなことをしようとした、ただそれだけのことです。

我々の身近な人々の間では、このバラモンのように高慢な態度の人は少ないですが、反対に「卑下慢」の思考の人がよくいます。自分の欠点、短所、未熟な点、失敗などが明るみに出ても、「自分は他人と違うのでどうしようもない」という考え方で開き直るのです。そうなると、愚かなことを繰り返すという点では、このバラモンと何ら変わりがないことになります。自分を成長させるべきであるという仏教の観点からすると、自分は他人と違うと考えないことが幸福への道です。

「不死不滅」という言葉ほど、この世の中で誤解される言葉はありません。美人がその言葉を聞くと、「自分の美貌を永遠に保てたら…」ということを妄想します。権力者は、誰にも支配・征服されない絶対的な権力の維持を、金持ちは一切減少しない富と財産を妄想します。不幸な人々の場合は、表面的に幸福に見える他の人々のことを羨んで、自分もそのような状態になれるのではと期待します。例えば、貧しい人は、思いのままの富に恵まれた生活を望みます。病弱な人は、健康と体力を、老人は若々しさを望みます。

今世で豊かさに恵まれる能力のない人は、死後永遠になっても、同じように恵まれない状態が持続するだけではないか…、無知な人は不死不滅になっても、無知のままではないか…、というのが論理的な考え方です。しかし、人々は理性や論理よりも、自分の都合と感情、我がままでものごとを考えるのです。ですから「不死の境地」をイメージすると、人の全ての欲望を実現させてくれる「魔法の世界」や「お伽の国」になるのです。権力・財産・健康・美貌などは、苦労しないで得られるものではありません。もし得たとしても維持するために苦労をするのです。この不可避な苦があるからこそ、不死を夢見るのです。仏教では、苦しみの延長、無限の欲望の延長は、愚か者の妄想だと考えるのです。不死は欲望に悩んでいる人の夢であって、実現出来たためしはないのです。

ですから、そうした絵空事の妄想ではなく、真理を知ること、慈愛に満ちた心を持つこと、自己制御を成し遂げることこそが、高貴な人(聖者)が説く具体的な「不死」なのです。そのように実現出来る、具現化出来る「不死」にこそチャレンジするべきです。