ジャータカ物語

No.54(2004年6月号)

チュッラカ長者の話④

Cullakaseṭṭhi jātaka(No.4) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

(前号から続きます)
その昔カーシ王国のバーラーナシーにおいてブラフマダッタ王が国を統治していたとき、菩薩は長者の家に生まれ、成長して長者の地位を得て、チュッラカ(小)長者と名づけられました。彼は、賢明で有能であり、あらゆる吉凶を見分けられました。

ある日のこと、彼は王に仕えに行く途中で、路傍で死んだネズミを見つけ、その瞬間の星廻りを読んで、このように言いました。「能力のある人がこのネズミを取れば、妻を養い事業を営むことができるだろう」と。

そのとき、ある貧しい家の息子が、その長者の言葉を聞き、「この人が、いい加減なことを言うはずはなかろう」と、そのネズミを取って、ある酒屋で猫の餌用に売り渡し、小銭を手に入れました。その小銭で砂糖を入手し、水瓶に飲み水を入れて持ちました。彼は森からやって来る花環作りたちに出会って、少量ずつ砂糖のかたまりを与え一杓の水も与えました。彼らはお返しに、めいめい一つかみの花をくれました。彼はその花の代価で翌日も砂糖を手に入れ、水瓶を持って花園へ行きました。その日、花環作りたちは半分摘み残された花の茂みを彼に与えて行きました。彼は、まもなくこのような方法で八カハーパナ(八両)を得ました。

さらに、ある風雨の日に、王家の庭園に大量の枯れた小枝や大枝や木の葉が風のために落ちたことがありました。庭園の管理人は、これをどう処分したらよいのかわかりませんでした。彼はその場に行き、「もしこの枯木や葉を私にいただけるのなら、私はあなたに代わってこれらをすべて片づけてあげましょう」と管理人に言いました。彼は、「よろしい、持って行ってくれ」と承諾しました。チュッランテーヴァーシカ(チュッラカ長者の教えを受けた弟子、という意味)である彼は、子供らの遊び場へ行って砂糖を与えると、子供たちにすべての枯木や葉をすぐさま片づけさせ、庭園の門のところに山積みさせました。ちょうどそのとき、王家の陶芸家が王家の人々の陶器を焼くための薪を探していました。陶芸家は庭園の門のところでそれらを見つけ、彼の手から買いとりました。その日、チュッランテーヴァーシカは木を売って十六両と、瓶などの五個の陶器を手に入れました。

彼は、所持金が二十四両になったとき、「妙案がある」と都の門からほど遠からぬ場所に水瓶を一個据え、五百人の草刈り人たちに飲み水を供給しました。彼らは、「あんたは私たちに大変親切にしてくれた。あんたのために何をしてあげたらいいだろう」と訊きました。彼は、「私に何か事が起きたら、手伝ってください」と答えました。その後、彼はあちらこちらと動き廻っているうちに、陸路の商人や水路の商人と親しくなりました。陸路の商人は彼に、「明日、この都に馬の仲買人が五百頭の馬を連れてやって来るだろう」と教えました。彼はその言葉を聞くと、草刈り人たちに、「今日、私にひとつずつ草束をください。そして、私が草を売らないうちは、自分の草を売らないでください」と頼みました。彼らは、「いいとも」と承知して、五百の草束を運んできて、彼の家に積んで置きました。馬の仲買人は都じゅうで馬の草を入手できなかったので、彼に千両を渡してその草を買い取りました。

それから数日たって、水路の商人である友人が彼に、「港に大きな船がやって来た」と告げました。彼は、妙案が浮かんで、八両で、あらゆる装備のついた豪奢な車を借りてきて、威風堂々と船着き場に赴きました。船を買収するための誓約として指輪を一つ船主に渡すと、遠からぬ場所に天幕を張らせて坐りました。そして従者たちに、「外から商人がやって来た場合には、三人の門番を通じて知らせなさい」と命じました。「船が着いた」ということを聞いて、バーラーナシーから百人の商人たちが、「品物を手に入れよう」とやって来ました。だが彼らは、「あなたがたは品物を得ることはできない。某所の大商人が、すでに買収する契約をしてしまった」という話を聞いて、彼のもとへやって来ました。従者たちは前もって注意されていた通り、三人の門番を通じて、彼らのやって来たことを知らせました。その百人の商人たちは各自、千両を出して彼と一緒に船の所有者になり、さらに各自、もう千両ずつ出して彼に所有権を放棄させ、品物を自分らの所有にしました。

チュッランテーヴァーシカは、こうして二十万両を獲得してバーラーナシーに帰り、「恩に報いるのは当然だ」と、十万両を持ってチュッラカ長者のもとへ行きました。すると、長者は彼に、「君は何をしてこの財産を獲得しましたか」とたずねました。彼は、「あなたが話された方法にもとづいて、ちょうど四ヵ月の間に獲得したのです」と、死んだネズミのことから始めてすべての出来事を語りました。チュッラカ大長者は、彼の言葉を聞いて、「このような若者を他人にとられてはなるまい」と思い、年ごろの自分の娘を与え、自分の後継ぎとして、全資産の所有者としました。彼は長者の死後、その都における億万長者の地位を得ました。また、菩薩であるチュッラカ長者は、業に従って生まれかわって行きました。正覚者は、この説法をされてから、次の詩句を唱えられました。

才能ある賢者は
資金がわずかでも
見事に身をたてる
微かな火種を
吹き起こすように

こうして、お釈迦さまは、「比丘らよ、チュッラパンタカは今、私によって、私の教えのなかで最高の法を得たが、前世でも、私によって、財産のなかでも巨万の冨を獲得したのだ」と言われました。このように二つの出来事を語られると、過去を現在にあてはめられ、「そのときのチュッランテーヴァーシカはチュッラパンタカであり、チュッラカ大長者は実に私であった」と言われて、説法を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓
この世ではダメな人間など、存在しません。それは、仏教が人々に対して示す姿勢なのです。仏教の前では、全ての人間は、本来幸福に満たされている、能力に溢れているものなのです。いかなる人でも「ダメな人間だ」と、捨ててはならないのです。人にどれほどの能力が秘められているのかなど、そんなに簡単に分かるものではないのです。

しかし、実際の世界では、成功する人も失敗する人も中途半端な人も、ありふれています。これを正確に表現するならば、「成功する人の数は、極めて少ない」という言い方になるのです。それは運命でしょうか? 諦めるべきでしょうか? 違います。方法の問題です。自分に適した方法を用いない限り、秘められた才能は発揮されないのです。私たちは、同じ手段で、同じ方法で、全ての人々を育てようとしているのです。これが、大失敗の元です。教育の場でも、落ちこぼれが出てくるのは、決してその子供たちの頭が悪いからではありません。その子供たちに既成の教育方法が合わなかっただけです。自分の能力も充分発揮できていない社会人には、各々の能力を充分発揮させるような教育システムは作れないのです。教育を受けることに向いていない人にも、幸福になれる別な道があるはずです。それを発見できないから、この世は失敗者で溢れているのです。

釈尊は「善逝」、「調御丈夫」と呼ばれています。それは、釈尊が具備されていた、各々の人の秘められた能力を発揮させ導くことができるという、この上ない能力を示す称号なのです。釈尊が遺された教えも、社会のあらゆる人々が幸福になるために、解脱を得るために教示されたものです。あなたに適した教示も、経典の中に必ずあるのです。それを発見してみましょう。人生も成功するし、解脱も得られると思います。人は、賢者の話に耳を傾けるべきなのです。