ジャータカ物語

No.63()

糞(くそ)まみれのイノシシ物語

Sūkara jātaka(No.153) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これはシャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のお話です。

ある夜、祇園精舎で法話会がありました。お釈迦さまは月明かりの下、宝玉で飾られた演台に立って朗々と法を説かれ、法話が終わると側にあるご自分の部屋に入られました。釈尊の一番弟子の、智慧第一と称されるサーリプッタ尊者も、釈尊にていねいに礼拝してから自室に戻られました。サーリプッタ尊者と並んで釈尊の二大弟子のお一人であるモッガッラーナ尊者も同様に自室に戻られたのですが、しばらくして問答のためにサーリプッタ尊者をお訪ねになりました。その辺りにいた大勢の比丘、比丘尼、男女の在家信者たちが、お二人の大長老を囲んで集まりました。サーリプッタ尊者は法話の座に着かれ、さまざまな質問に対して、夜空を月が照らすように明らかにしながら、一つ一つお答えになりました。人々は、すばらしい法話に心を喜ばせ、静かに耳を傾けていました。

その時、一人の年寄りの長老が、「私はここで、サーリプッタ長老が返答に困るような賢い質問をしてやろう。そうすれば、この大勢の人たちは『なんとすばらしい学識者だ』と私を尊敬するに違いない」と考えました。年寄りの長老は立ってサーリプッタ尊者のそばに行き、「友、サーリプッタさん、私もあなたに質問をしようと思うが、よろしいか。徹底、取捨選択、論破、承諾、特質的、細別的、その決め方を教えていただきたいのだ」と得意そうに言いました。

サーリプッタ尊者は、「この老人は欲から離れられず、空っぽで、何も知ろうとしていない」とわかり、彼の質問には何も答えず、扇を閉じて座を立ち、自室へ戻られました。モッガッラーナ尊者も同じように自室に戻ってしまわれました。在家信者たちは、「あの年寄りの長老のせいで、せっかくの法話が終わってしまった」と、その長老を非難して詰め寄りました。年寄りの長老は、慌ててその場を離れようと急いだために、フタが壊れた肥溜めに落ちてしまいました。

皆は驚いて長老を助けましたが、あまりのことにその夜の法話で静まり喜んでいた心が落ち込み、もう一度お釈迦さまのお話が聞きたくなって、釈尊のところに戻りました。釈尊は、「こんな時間に、いったいどうしたのですか」とたずねられました。人々が事情をお話しすると、釈尊は「あの老人が自分の本当の力を知らず、高慢になって糞まみれになったことは、過去にもあった」とおっしゃって、皆に請われるままに過去の話をされました。

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はライオンとして生まれ、ヒマラヤ山中の洞窟に住んでいました。洞窟の近くにある湖のほとりには、たくさんのイノシシが住んでいました。また、その近くには、多くの苦行者たちが、茅葺きの小屋を建てて住んでいました。

ある日、ライオンは、水牛や野猿などの獣のうちの一匹を食べてお腹がふくれ、湖で水を飲んでいました。すると、一匹の太った大きなイノシシが、獲物を探しにやってきました。ライオンはそのイノシシを見て「私は今はお腹が大きいが、今度、こいつを食べてやろう。このイノシシが怯えて逃げないように、今日はもう帰るとするか」と思い、静かに湖から離れようとしました。

イノシシはそれを誤解して、「このライオンは、俺を見て、怖がって逃げようとしているぞ。よし、こいつと果たし合いをするように仕掛けてやろう」と思いあがり、首をあげ、ライオンに戦いを挑む詩を唱えました。

友よ、私は四本足で、
君も、同じく四本足だ。
ここへ来たれ、ライオンよ。
怯えてどこへ逃げるのか。

ライオンはその言葉を聞いて、「友よ、私は今日は君と戦うつもりはない。七日後にここで戦おう」と挑戦を受けて、その場を立ち去りました。

イノシシは、「俺はライオンと果たし合いをすることになったぞ」と高ぶって、親族に自慢しました。親族のイノシシたちはその話を聞いて恐ろしさに震え、「バカ者め。自分の力も知らず、ライオンに果たし合いを挑むなど、何という身の程知らずだ。ライオンは、おまえだけではなく、我々全員の命を取るだろう。全く、軽率なことをしたものだ」と責めました。イノシシはすっかり怯え、「何とか助けてくれ」と懇願しました。親族の中の知恵者が、「一ついい方法を教えよう。湖のそばには苦行者たちが住んでいる。人間の大小便は、不浄でひどく臭いのだ。苦行者たちが便所にしているところに行って、大小便の上で身体を転がしなさい。七日間の間、転がっては乾かし、転がっては乾かし、身体を糞まみれにするのだ。果たし合いの日には身体を汚物で濡らしたまま早めに行って、風上に立っていなさい。ライオンというのはきれい好きで、わずかな汚れも嫌うものだ。おまえの不潔な姿を見たら、きっと戦わずに立ち去って、勝ちをゆずるだろう」と教えました。イノシシは言われたとおりに、苦行者たちの便所に行って、転がっては乾かし、転がっては乾かし、身体中を糞まみれにしました。イノシシの体は大小便だらけの恐ろしく汚い有様になりました。

そのようにして七日間が経ちました。決闘当日、汚物で体を濡らしたイノシシは、早めに行って風上に立ちました。果たし合いの場に現れたライオンは、ひどい悪臭を嗅ぎ、すぐにイノシシの策に気づきました。そして、「こいつはよく考えたものだ。こんなやつはすぐに倒して食べてやろうと思ったが、こんな汚いやつに触れることはできない。私は立ち去ることにしよう」と、次の詩を唱えました。

毛皮が臭くて、糞まみれ。
悪臭漂う、イノシシよ。
そのまま戦うつもりなら、
勝利などはもういらぬ。

ライオンは引き返して他の獲物を捕り、湖の水を飲んで、山の洞窟に戻りました。イノシシは「俺は勝ったぞ。ライオンを負かしたぞ」と威張って言いました。親族たちはその頭の悪さにあきれ、「こいつとここにいては自分たちの命が危ない」と、よそへ逃げて行きました。

お釈迦さまは、「その糞まみれになったイノシシは肥溜めに落ちた長老であり、ライオンは私であった」と過去の話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

空っぽな人間ほど社会での高い位置を望む者はいません。知識にも才能にも恵まれてない人は、社会で先頭に立って活動する人々に憧れます。自分もそのような位置にいればいかに格好良いでしょうと夢見るのです。自分の能力の程を省みず成功者の顔ばかり仰ぐことも、人間を煩わせる妄想パターンの一つです。

若い時に成功者に憧れるのは自然の流れです。それは、「私も頑張らなくては」と自分を励ますために、成功者を目標にすることです。それによって自分の能力を向上させ、大人になることでしょう。そこまでは問題ないのですが、自分の能力を省みず、上達させる努力もせず、憧れるだけの妄想は、人を精神的な病気にしてしまいます。精神病に罹ったら、社会の位置を確保するどころではなく、社会から隔離されることになる。しかしこれも大きな問題ではありません。適切に精神的な治療を施してあげれば、それで良いのではないかと思います。

問題は、「憧れ病」が、社会で大変大きなトラブルを引き起こしている側面があることです。政治家の権力と威厳に憧れて、国民を幸せにする能力も気持ちもひとかけらもない人が政治家になる場合を考えてみましょう。その人は、正面から正々堂々と政治活動するのではなく、あらゆる悪い手を使って権力を握るのです。それからその権力の維持に必死になる。時々、選挙で選ばれたのに選挙そのものを禁止して、自分の座を守るケースも世間では見られます。選挙を禁止するためには、国内に政治不安、暴動、反乱があった方が好都合なので、僅かな問題に凶暴に反応して国民の苛立ちをとことん煽るのです。政治家に限らず、資格のない人物があらゆる手を使って上によじ登ろうとすることは、よくあります。経営能力もないのに、課長になったり、部長になったり、社長になったりして、その会社を倒産に追い込む人も少なくありません。能力がない人の経営で銀行まで倒産する世界なのです。

才能・能力がある人には自信があります。「何としても昇格しなくてはいけない」と思わないのです。自分の立場を確保しておかなくてはいけないという不安がないのです。昇格するのも、社会での高い位置に置かれるのも、自然の流れに任すのです。能力ある人なら、頂点に立っても、その社会を繁栄させ、守るのです。しかしこの世では、資格があっても、能力があっても、才能があっても、その人が相応しい位置に立つことは、殆どあり得ないほど稀なことです。

「憧れ病」に罹っている人々は、四六時中、自分の位置を築くために必死で行動しているのです。能力ある人々の足を引っ張るために、色々からくりするのです。結果として、資格のある人々がはみ出されて、何の資格もない人々に支配されている、現代のような社会が現れてくるのです。この物語は、このような社会現象に対して警鐘を鳴らしているのです。