ジャータカ物語

No.99(2008年3月号)

道徳考察物語

Sīlavīṃansa jātaka (No.330) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎におられた時のお話です。

コーサラ王に仕える大臣に、三帰依し、五戒を守り、三つのヴェーダ聖典の極意にも通じたバラモンがいました。彼は、コーサラ王の信頼も厚く、格別の敬意を払われていました。

ある時、その大臣は、「王様は私に過分なほどの敬意を払ってくださる。それは、私の家柄、素性、地位、学業などによるのだろうか。それとも、私の道徳によるのだろうか。私はそれを試すことにしよう」と考えました。

ある日、大臣は、お城での仕事が終わったあとに、財務官の部屋に入り、財務官の目の前で一枚の金貨を取って、黙って家に持ち帰りました。財務官は大臣に対する尊敬の念から、何も言いませんでした。翌日、大臣は、同じように、断りもせずに二枚の金貨を持ち帰りました。財務官は再び黙っていました。

三日目に大臣は、一握りの金貨を掴み、持ち帰ろうとしました。財務官は初めて口を開き、「あなたはこれで三度も王様の金貨を盗んだ」と大臣の腕を掴み、「王の財産を盗む賊を捕らえたぞ」と大声で三度叫びました。たくさんの人々がやって来て、「今まで長いあいだ有徳者の仮面をかぶっていたのだな、化けの皮がはがれたぞ」と言いながら、三度大臣を殴り、王のところに引き立てました。

王は、皆に引き立てられてきた大臣を見て、「この者に刑罰を処せ」と命じてから、彼の行いを悔やみ悲しんで「バラモンよ、そなたはなぜこのような不徳をはたらく賊に成り下がったのか」と問いかけました。「大王様、私は賊ではありません」「それならば、なぜ金貨を盗ったのだ」「王様が私を尊敬されるのは、私の家柄、素性、地位、学業が優れているためなのか、あるいは、私の道徳によるのか、それを試そうとして、あのようなことをいたしました。これで、敬意を払われるのは、私の道徳のせいであり、私の家柄、素性、地位、学業ではないということがわかりました。王様、今、私は、この世において、道徳こそは最も大事であり、すべてに勝るものだと確信いたしました。本格的に徳のある生き方をするためには、欲にまみれた在家生活のままでは無理でございます。私は、刑を受け終えた後、ブッダのもとで出家することを心に決めました。どうぞそのことを私にお許しください」。

王の許可を得た大臣は、刑を受け終えた後、出家することにしました。親族や友人知人が彼を引き留めようとしましたが、大臣の決意は固かったのです。大臣は祇園精舎の釈尊のもとに出向いて出家を願い出、比丘戒を受けることを許されました。比丘となった大臣は、怠らず熱心に冥想に励み、ついに阿羅漢果を得ました。そして、釈尊のところに行って自分の得た境地を語り、師から認められました。

法話堂に集まった比丘たちが彼の徳を誉め称えていたところ、釈尊が来られて皆の話をお尋ねになり、「道徳の価値を試して出家し、自己を救い得たのは彼だけではない。過去においても賢人が道徳の価値を試して出家し、自己を救ったことがあった」とおっしゃって、皆に請われるままに過去の話をされました。

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、バラモンとして生まれた菩薩は、王に仕える司祭となりました。現世物語の大臣と同様、徳の優れた者として王からたいへん尊敬された菩薩は、やはり同じように、家柄・学識か、あるいは道徳か、どちらが勝るかを試そうとして、わざと王の財産を持ち帰り、盗人として捕らえられました。菩薩は王の裁きを受け、刑に処されることになりました。

菩薩が人々に引き立てられて行く途中、一人の蛇遣いが毒蛇の尾を掴んだり、毒蛇の頭を掴んだり、毒蛇を首に巻いたりしているところを通りかかりました。菩薩が「そのような危険なことをしてはならない。蛇に噛まれたら命がないであろう」と注意すると、蛇遣いは、「バラモンよ、この蛇は道徳があり、品行が正しいのです。そのような不道徳な行いはしません」と応えました。

菩薩は、「蛇でさえ、行いが正しいと有徳の名を与えられ、敬意を払われる。人間においては言うまでもない。この世界で、徳のある行いこそは最も優れている。それ以上のものはない」と考え、次の詩句を唱えました。

道徳こそは善けれ
世に道徳は無上なり
見よ、劇毒をもつ蛇でさえ
道徳あれば害ならず

刑罰を受けた後、王の許可を得て出家を決めた菩薩は、山に向かって歩き出しました。山へ行く途中、一羽の鷹が肉屋から一片の肉をかすめ取り、空中に飛び上がりました。すると、他の鷹たちが猛烈に襲いかかり、鋭い爪や嘴で、肉を持つ鷹を攻撃したのです。肉を持つ鷹はその苦しみに耐えきれず、肉片を手放しました。ある鷹がその肉片を奪うと、すぐに他の鷹たちから攻撃を受けました。それに耐えきれずに肉片を手放すと、その肉片を奪った鷹が、また襲われたのです。

こうして、肉片を取る鷹はいつでも他の鷹から攻撃を受けて苦しみ、肉片を捨てた鷹はそれで楽になったのです。これを見た菩薩は、「欲というものは肉片のようなものである。これに執着する者は苦しみ、これを捨てた者は楽になる」と、次の詩句を唱えました。

彼、何ものか持てる間は
世の鷲ども来たりてそを奪い喰らう
何ものもなき者を
彼ら害することなし

そのうちに日が暮れたので、ある村の家で宿を借りました。その家のビンガラーという名の女中は、男と夜更けにこっそり会う約束を交わしていました。仕事が終わったビンガラーは、皆が寝静まった後も男を待って、「今か、今か」と落ち着かずにウロウロしていました。夜明け近くになって「彼はもう来ないだろう」とあきらめたビンガラーは、寝床に入って深い眠りに落ちました。これを知った菩薩は、「この女は、今に男が来るだろうと思う欲情から、あれだけの長い間落ち着かずにイライラしていた。男が来ないことを知ってあきらめた今は、気楽に眠っている。欲情は苦で、欲情のないことは楽である」と、詩句を唱えました。

欲は実りあるときのみ楽し
欲なき者は楽に臥す
欲を無欲にして
ビンガラーは楽に臥す

翌日、菩薩は森に入りました。菩薩はそこで、一人の修行者が一心に禅定を修して坐っているのに出会いました。菩薩は「この世でも、かの世でも、禅定の楽に優る楽はない」と、次の詩句を唱えました。

三昧に優るものは
この世にも、かの世にも、見つからず
三昧を得るものは
他人をも自己をも損なうことなし

菩薩は森に住んで熱心に修行し、禅定と神通を得て、死後梵天界に生まれる身となりました。

お釈迦さまは、「その時の出家した司祭は私であった」と言われ、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

人は誰でも豊かになりたいのです。人間として成功したいのです。社会に認めてもらいたいのです。うまく行けば有名になって大衆に誉めたたえられる人間になりたいのです。このような期待を持つことが悪いと言う人はいません。仏教はこのような願望を否定していると思われているようですが、それも間違いなのです。人は豊かになって何の悪いこともありません。有名になって何の悪いこともありません。

問題はその目的に達する方法です。生まれつき頭がよくて怠けず勉学に励む人なら、簡単に高等な学識を得ることはできるのです。自分の知識を活かして、豊かになることも、有名になることも、認められることも、できるのです。また、この社会で格式の高い家に生まれる人もいるのです。大富豪家の家に生まれる人や、権力者の家に生まれる人もいるのです。そのような人々は、一般の人よりは特権を持っているのです。自分で努力する前からも、豊かで有名なのです。しかしそういう人々も、大人になるにつれて、豊かになること、権力者になることを、自分の力で獲得しなくてはならないのです。

誰であっても期待・希望はほぼ同じなのです。ですから社会は「素晴らしいことだ」と無条件に学業を褒める。「財産があることは最高に幸福だ」と財産を無条件に褒める。同じく、権力に対しても無条件で最高に素晴らしいものだと褒めるのです。それらが揃ってこそ幸福な人間であると思っているのです。

よい人間であること、人格者であること、道徳を守ることは、なかなか褒めてくれません。子供たちが、精神世界について、道徳について興味を抱き、勉強し始めたら、親が困るのです。一円の収入にもならないことを止めてほしがるのです。

子供は道徳について学ぶよりは、塾に行って足し算引き算掛け算割り算の勉強をしたほうよい、と思っているのです。もし子供が競争の厳しい有名な大学に受かったならば、親にとってそれこそ最高な価値あるものです。世の中のこの考えは、本当に事実なのでしょうか? 本当に皆、そう思っているのでしょうか? 勘違いしているのではないでしょうか?

これは大きな疑問です。なぜならば、世界で知られている有名人であろうが、メダリストのスポーツマンであろうが、連続当選する有名な政治家であろうが、何か法律でも犯したら、どうなることでしょうか? 一日にしてその人の輝きを消してしまうのではないでしょうか? あることもないことも言って、一方的にその人のことを非難するのではないでしょうか? たとえ天才的な能力を持つ学者であっても、もしその人に物を盗む癖があるとするならば、雇うでしょうか? 人を殺しても、法律の罰を正しく受けて罪を償って一般社会に戻った人なら、選挙に出られますか?

実際は、我々は人の学識・能力・財産などを仰ぎ見るが、その人に道徳がなければ怖がるのです。一緒に居てほしくないのです。社会で堂々と権力をもって行動することは何よりも嫌がるのです。頭ごなしに道徳を無視して軽視する逆さま思考のおかげで、人々に正しい道徳を学ぶチャンスさえ無くなっていますが、結局は最後にものを言うのは知識・財産・権力ではなく、道徳なのです。

 

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