ジャータカ物語

No.101(2008年5月号)

ガンダーラ王とヴィディーハ王

Gandhāra jātaka(No.406) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダが祇園精舎で語られたお話です。

昔々、菩薩はガンダーラという国の王でした。少し離れたところにヴィディーハ国と呼ばれる国がありました。ヴィディーハの国王と菩薩は、一度も会ったことはないながら、信頼を寄せ合う友人同士でした。当時、人間の寿命はとても長く、三万歳もの寿命があったといいます。

ある満月のウポーサタ(戒律の儀式)の日、菩薩は高殿に設けられた立派な玉座に腰をかけ、大臣たちに法に適った話をしていました。その時、大空を照らしていた満月をラーフ(暗黒を象徴する龍魔神)が覆い、月の光が失われました。菩薩は、「この月は外来の汚れによって汚され、光を消された。余にとってはこの王位が汚れである。ラーフに覆われた月のごとく光輝を失うことは、余にふさわしいことではない。清き天空に照りわたる月のごとく輝くため、この王位を捨てて出家しよう。余にとって他を教戒することは何になろう。これからは家族や家臣たちにとらわれることなく、自分だけを戒めつつ遊行しよう。それが余にはふさわしい」と決意し、「汝らの欲するままになせ」と国を大臣たちに与え、カスミーラとガンダーラの王位を捨てて出家しました。熱心に修行した菩薩は、まもなく禅定と神通を得、禅定の楽を楽しみつつヒマラヤに住んでいました。

ある時、国々を渡り歩く商人に友人の消息を尋ねたヴィディーハ王は、菩薩の出家を知りました。王は、「わが友は出家した。余は世俗に留まったままでいて、いったいどうしようというのか」と自分も出家することを決意し、広大なヴィディーハの国とミティラ市、一万六千の村落の支配権と満杯の宝倉、一万六千人の舞姫を捨て、後を省みることなくヒマラヤに入り、野生の果実で命をつなぎながら静かな出家生活をおくり始めました。同じヒマラヤで生活する二人は自然と出会い、ヴィディーハ行者は、すでに禅定と神通を得ていたガンダーラ仙人の弟子になりました。こうして二人は、互いに相手の出自を知らぬまま、仲良く静かな修行生活をはじめたのです。

ある満月の夜、二人は木の根元に坐り、法に適った話をしていました。その時、天空に昇った月をラーフが覆いました。ヴィディーハ行者はそれを見て、「師よ、いったい何が月を覆い隠して暗くしてしまったのでしょう」と尋ねました。「弟子よ、あれはラーフのせいだ。ラーフは月の汚れであり、月の光を失わせる。私は出家する前、ラーフに覆われた月を見て、『清らかな月は外来の汚れによって光を消されてしまった。余にとってはこの王位が汚れである。ラーフに光を奪われた月のようにならないように、王位を捨てて出家しよう』と決意し、直ちに王の位を捨てた。私はラーフに光を奪われた月を縁として出家したのだ」「師よ、あなたはガンダーラ王ではありませんか?」「そうだ」「師よ、私はヴィディーハ王です。私達は友人だったのですね」「そうだったのか。そなたはいかなる縁で出家を決意したのか」「私はあなたが出家されたことを聞き、『実に、かの方は出家の功徳を見極めたのだ』と知って、あなたを縁として王位を捨てたのです」

彼ら二人は、それ以来、以前にも増して非常に親しく調和して、清らかな修行生活を送りました。

二人はヒマラヤに長い間住んでいましたが、ある時、生活に必要な塩などを得るために山から下り、国境の村に入りました。村人たちは二人の承諾を得て、夜露を防ぐ庵(いおり)を近くの森に建てました。また、清らかな水の流れの近くに二人が食事するための庵を造りました。二人は森の庵に滞在し、村で托鉢した食事を水辺の庵で食べました。ある時の食事には適度な塩気があり、ある時の食事には塩気が足りませんでした。ある日、村人が草籠(くさかご)に塩をたくさん入れて二人にお布施しました。ヴィディーハ行者は、その日の食事に使った塩の残りを「これは塩気のない食事の時に使うことにしよう」と庵に保存しておきました。

ある時、塩気のない食事がお布施されました。ヴィディーハ行者はしまっておいた塩を出してきて、「師よ、塩をお取りください」と言いました。「この塩はいったいどうしたのだ?」「師よ、先日たくさんの塩をもらいました。私は『これは塩気のない食事の時に使うことにしよう』と思って保存しておいたのです」。

その言葉を聞いた菩薩は、「愚か者、二百由旬もの広大な国を捨てて出家して、何も持たない境遇になったのに、塩や砂糖などに欲を起こすのか」と弟子を戒めて叱りつけ、詩句を唱えました。

汝は捨てり
一万六千もの豊かなる村落を
満ち溢れたる財宝を
されど今また、たくわえをするや

ヴィディーハ行者は、菩薩から厳しく叱責されたことに耐えかねて腹を立て、「師よ、あなたは自分の罪を見ず、私の罪だけを見ておられます。あなたこそ、『余にとって他を教戒することは何になろう。これからは家族や家来にとらわれることなく、自分だけを戒めつつ遊行しよう』と考えて王位を投げ出し、出家されたのでしょう。それなのに今、なぜこのように私を戒めなさるのか」と言い返して、詩句を唱えました。

種々の財宝に満ち満てる
ガンダーラ国を捨て去りて
教戒よりも離れしに
ここに戒む、われをまた

菩薩も詩句で応えました。

われは正しき法を語る
非法はわれに好まれず
われの法を語る行為は
邪悪に染まらず
ヴィディーハよ

ヴィディーハ行者はなおも、「師よ、いくら有益なことであれ、他人を怒らせてまで話すことは善くありません。あなたは、まるでなまくらなカミソリで剃るように、私に粗暴に語られました」と言って、詩句を唱えました。

いかなる類のことなるも
それにて他人が煩わば
大利もたらす語なりとて
賢者はそれを口にせず

菩薩も再び、詩句で応えました。

人、悩め、悩まざれ
籾(もみ)がらのごと乱るるも
われの法を語る行為は
邪悪に染まらず

菩薩は、「ヴィディーハよ、私は、陶芸師が生土(しょうど)を生土のままにしておくような所作はしないであろう。真(まこと)のことは、三度も四度も叱責して説いてこそ身につくのだ。陶芸師は、窯に入れた陶器を何度も叩き、まだ生焼けのものは窯から取らず、しっかり完成した陶器だけを取る。そのように人も、何度も戒められ叱責されてこそものに成るのだ」と、次の詩句を唱えました。

人、自らの智慧がなく
戒めも躾もないときは
盲目の水牛が林で迷うごとく
道わからず、うろつかん
されど、戒めと躾を正得せし人あらば、
そにより人々は戒められ、正しく生くるならむ

ヴィディーハ行者は、「師よ、どうぞこれからも私を戒めてください。私は躾のないまま、あなたに論を語りました。どうかおゆるしください」と素直に謝りました。

その後、彼らはヒマラヤに戻り、より親しく出家生活を続けました。菩薩に教え導かれたヴィディーハ行者は、ついに禅定と神通力を修得し、二人とも死後梵天界に生まれるべき身となりました。

お釈迦さまは、「その時のヴィディーハ行者はアーナンダであり、ガンダーラ仙人は私であった」とおっしゃって、話を終えられました。

 

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

●価値とは
世間は様々なものに価値を付けます。人は、美しく、体力もあり、健康であるならば、羨ましがられる。これは価値観なのです。知識、権力、財力があることにも、価値を見出します。そのうえ、実際には価値がないのに、単純に珍しいということでも価値を見出すのです。モーツァルトの直筆楽譜なら、何千万もの価値が付くようです。古い映画ポスターやマンガ本、おもちゃなどにも、プレミアが付いて値段がつり上がります。

このようなものは何一つも、「自分のもの」になりません。自分からいとも簡単に離れてしまうのです。死ぬ時はすべて捨てて、立ち去るのです。高い値札の付いた品物の山に囲まれて生活しても、人は何も持たず、他界するのです。大富豪という理由で、死後、天国に生まれることはないのです。自分のものだと正しく言えるものに、自分から離れないものに、価値を付けたほうがいいのに、それについては見事に無関心なのです。

今回のジャータカ物語では、世間の価値観を何の躊躇(ちゅうちょ)もなく批判しているのです。大国の王であった菩薩は、一切の財産・権力に価値を見出すことがありませんでした。心を汚す汚染物として見ていたのです。最低、人のリーダーであること、人を教戒する立場にあることさえも、心の汚れとして見ていたのです。人を教戒する時、自分が他人より上位にいるという気持ちになります。この優越感さえも、心の汚れなのです。死後の世界は、心が司るものです。ですから、汚れた心でいることも、汚れた心で死ぬことも、決して評価できないのです。世間の人は財産を蓄えることに必死ですが、清らかな心に価値を見出す賢者にとっては、少々の塩を取っておくことさえも、心の汚れなのです。

この物語では、ヴィデーハ王が菩薩であるガンダーラ王を批判します。ジャータカ物語では菩薩こそが主役です。正しい道の象徴になるのは菩薩に決まっているのです。それなのに、ここでその菩薩が批判を受けている。それは、ヴィデーハ王を厳しい言葉で戒めたからです。「この態度は何ですか」という批判なのです。たとえ大事なことを教えてあげても、言葉が粗い語であるならば、それは語る人の自我意識の問題になります。

菩薩の弁論は、「無知な人々は道に迷っています。正しい道を教えてあげなくてはならないのです。人の個人的な感情にとらわれず、真理そのものであるならば、ただちに語るべきです。教えてあげるべきです。厳しい言葉で言われたなら、無知な人も、やむを得ず正しい道を歩むことになるでしょう。人のことを心配しているからこそ厳しい言葉でしゃべる場合は、自分のエゴをふるうことでもなく、他人をけなすことでもないのです」というものでした。この世では、厳しく言わなければ気づかない人の方が多いのです。

仕事がある、家族がいる、友人との約束がある、日曜日はゴルフに行く予定が決まっている、せっかくの休みだから楽しまなくてはいけない、などの理由で、心を清らかにすることは「そのうちやります、暇があるときにやります」と延期する人々にとって、ガンダーラ王とヴィデーハ王の態度は、目を覚まさせてもらうために適したエピソードでしょう。どれほど財産にあふれ、恵まれていたとしても、心を清らかにする行為には比較できません。