ジャータカ物語

No.116(2009年8月号)

ダッバ草花物語

Dabbhapuppha jātaka(No.400) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダがコーサラ国の祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。

祇園精舎にウパナンダという名の長老がいました。ウパナンダ長老は、出家でありながら、小欲知足の徳を捨てていました。

ある年、田舎の精舎で雨安居(うあんご)を過ごしたウパナンダ長老は、そこに住む比丘たちを集め、「比丘たるものは小欲知足の徳を保つべし」と、空を照らす月のごとき名調子で四つの必需品(衣食住薬)に対して清らかであることを説きました。その説教に心を動かされた比丘たちは、我も我もと快い衣を捨ててボロの糞掃衣(ふんぞうえ)をまとい、質の良い鉢を捨てて粗末な土の鉢を持ちました。ウパナンダ長老は自分の場所に他の人を住ませて雨安居の定住をすませ、戒律の儀式を行ってから、他の比丘たちが捨てた衣や鉢を荷車にいっぱい積んで祇園精舎に向かいました。

祇園精舎に戻る途中、ウパナンダ長老は、ある僧院の裏で足をつる草に引っかけました。彼は「こちらにも何か良いものがあるに違いない」と思い、精舎に入りました。そこには二人の年寄りの比丘たちが雨安居を過ごしていました。彼らはちょうど、二枚の粗末な上衣と一枚の立派なショールを適切に分配できず、困っていました。ウパナンダ長老が来たのを見た二人は、「この長老は我々の問題を解決してくれる方にちがいない」と期待して、「尊師、ここに雨安居のための、粗末な上衣が二枚と上等なショールが一枚あります。どうぞ我々のために公平に分配してください」と頼みました。ウパナンダ長老は、粗末な上衣を一枚ずつ彼らに与え、上等なショールは「これは律を持する我々の持つものだ」と取り上げて、そこを去りました。

ウパナンダ長老が祇園精舎に戻ると、比丘たちは、彼が運んできた衣や鉢を見て、「友よ、あなたは運がいい。たくさんの衣や鉢を手に入れたものだ」と言いました。彼は、「友よ、私は運がいいわけではない。私はこのようにして、これらを得たのだ」と事情を話しました。その頃、上等なショールに執着のある二人の比丘たちは、ウパナンダ比丘の後を追って、祇園精舎にやって来ました。彼らは先輩の比丘方に事情を話し、「尊者方、律を持する者は、このように、ものを取り上げることを許されているのですか」と訊きました。

法話堂で比丘たちが、「友よ、ウパナンダ長老はどうも欲から離れられないようだ」と話をしていると、釈尊が来られ、何の話をしていたのかお訊きになりました。そして、「比丘たちよ、ウパナンダによって、道は正しく行われなかった。他人に道を説く時は、先ず自らが実践してから法を説くべきなのだ」とおっしゃって、次の詩句を唱えられました。

まず自己を整え
その後に、他を教導すべし
さすれば賢者に
批判されることはない

そしてお釈迦さまは、「比丘らよ、ウパナンダは今だけではなく、過去でも欲にとりつかれていた。また、過去においても人の財産を取り上げたことがあった」と言われ、皆に請われるままに過去の話をされました。

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はとある川のほとりにある木の樹神でした。その頃、マーヤーヴィン(まやかし屋)という名のジャッカルが、雌のジャッカルと共に、川岸に住んでいました。

ある時、雌ジャッカルがマーヤーヴィンに、「新鮮なローヒタ魚が食べたい」とねだりました。マーヤーヴィンは「ここで待て。俺が魚を持ってきてやろう」と言って巣穴を出、川岸に沿って歩き出しました。

その時、二匹のカワウソも魚を捜していました。ガンビーラチャーリンという名のカワウソが大きなローヒタ魚を見つけて食らいつきました。しかし元気な魚はそのままどんどん泳ぎ、魚に引っ張られた彼は友の助けを呼びました。

友、アヌティーラチャーリン(岸を走る者)よ
僕を追いかけてくれ
大きな獲物を捕らえたが 
彼は猛スピードで僕を運ぶ

友、ガンビーラチャーリン(深みを走る者)よ 
力強く強固に捕らえよ
ガルーダ鳥が蛇を捕らえるように 
僕があいつを引き上げてやろう

そのように、二匹は協力してローヒタ魚を捕まえました。ところが彼らは、せっかく捕まえた魚を上手に分けることができません。とうとう魚をそこに置いたまま口論を始めました。そこにジャッカルがやって来ました。カワウソたちは、賢そうなジャッカルを見て、きっと自分たちの問題を解決してくれるだろうと期待して、次の詩句を唱えました。

赤毛の友よ、(ダッパ草花色=赤茶色)
ここに争論が起こっている
友よ、お願いだ、争いを鎮めておくれ

ジャッカルは応えました。

俺はかつては名裁判官
事件をたくさん解決したものさ
友よ、まかせろ
論争は鎮まるだろう
アヌティーラチャーリンはしっぽを
ガンビーラチャーリンは頭を
真ん中は
裁判官の取り分だ

そう言って、ジャッカルは、魚の真ん中の部分を持って立ち去りました。カワウソたちは悔しがって、次の詩句を唱えました。

僕らが争わねば
獲物は奪われなかったものを
頭と尾を残し、
ジャッカルは魚を奪い去った

夫が赤い魚を持って帰って来たのを見たジャッカルの妻は、たいへん喜びました。彼女は不思議がって「泳げないあんたが、どうやって魚を捕まえることができたの?」と尋ねました。ジャッカルは次の詩句を唱えました。

論争により人はやつれ
論争より財が減る
論争ゆえにカワウソは負ける
マーヤーヴィン、ではローヒタ魚を食べよ

そしてお釈迦さまは次の詩句を唱えられました。

まさにかくのごとく
人々の間に争論起こりて
彼らは裁判官のもとに行く
裁判官こそはわれらを教導する者と
頼るとき
彼らの財は失われ、王の蔵のみ増大す

お釈迦さまは話を終えられ、「その時のジャッカルはウパナンダであり、カワウソは二人の年老いた比丘たちであり、この出来事の目撃者である樹神は私であった」とおっしゃって、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

ポイント1:他人に説教する前に、自分で実践してみるべきです。

仏教ではこの倫理が厳しく説かれているのです。お釈迦様の時代、宗教を教える先生たちは、さまざまな修行方法を弟子たちにやらせて試してみたのです。

これはとても失礼な、師匠らしくない態度なのです。師匠たるものは、弟子のことを我が息子のように心配しなくてはいけないのです。食べたことのない食べ物を息子に試食させて、大丈夫なら自分も食べる父親はいません。宗教の世界では、教える人々が、自分が実践したことがないにもかかわらず、平気で弟子たちに指導したりやらせたりする。そういうケースは多いのです。人に幸福になる道を語る前に、自分が実践して幸福に達してから、後輩に語るべきなのです。「こうすれば幸福になるだろう」という調子ではだめなのです。

現世物語の悪役を担ったウパナンダ比丘は、自分が恵まれていたからではなく、自分の能力で財産を得たのだと自慢するのです。この比丘は戒律などを学んで覚えていたのです。その上、口達者なのです。口達者な人、他人を楽しませるように語れる人、儲け話ばかりを語る人には騙されやすいので要注意です。

ポイント2:意見が違ったところで、論争するのは断言的に間違いなのです。

論争するとは、自分の意見が正しいと押しつけて、相手の意見を潰すことです。違った意見が二つあるということは、どちらにもそれなりの根拠があるということにもなります。しかし、どちらも結論に達するためには不十分なので、相手は別な立場から考えて、別な意見になるのです。そこで一人の意見を潰すことでは、決して良い結果にならないのです。

人は対話するべきです。「私が正しい」という立場では、対話にはなりません。それぞれの意見を合わせて、よりよい結論に、互いの努力によって達するべきなのです。世間ではなかなかそのような理性的な生き方は見当たらないのです。

自分が正しいと思うと、裁判にかける必要が出てくるのです。しかし裁判であっても、口達者な人、嘘を上手につける人、財産があって優秀な弁護士を雇える人が勝つのです。「公平な裁判」というのは、表向きの話です。現実はその通りにはいかないのです。

少々の喧嘩でも、裁判にかけてみることになったら、お釈迦様の時代でも、人々はたいへん苦しんだのです。昔は、原告も被告も、裁判官に審判料を払わなくてはいけなかったのです。当時では金融制度が発展していなかったので、数字で金額を決めることはできなかったのです。ですから、裁判料を高く払った人の方に、判決は傾くことになるのです。政府(王様)がかかわる裁判の場合、人の財産は、王様がとりたい放題だったのです。

ですから、戦うことでは、両側とも損をするだけです。また、事実は何かと、見えてこないのです。仏教は論争より対話を薦めるのです。