ジャータカ物語

No.126(2010年10月号)

供養物語

Pīṭha jātaka(No.337) 

アルボムッレ・スマナサーラ長老

これは、シャカムニブッダがコーサラ国の都サーヴァッティー(舎衛城)近郊にある祇園精舎(ぎおんしょうじゃ)におられた時のお話です。

ある時、一人の比丘が田舎から出てきて祇園精舎を訪れました。比丘は、法衣と鉢を庵に置いてお釈迦さまのところにご挨拶をしに行ってから、沙弥たちに、「友よ、サーヴァッティーを訪れる来客比丘は、どちらで食事の供養を受けているのですか?」とたずねました。

沙弥たちは、「友よ、サーヴァッティーには、アナータピンディカという大長者と、ヴィサーカー夫人という大富豪の女性が住んでいます。この二人は仏教の多大なる援護者で、お二人の家は比丘たちにとって我が家のようなところです」と言いました。

田舎の比丘は、次の朝とても早く、まだ誰も托鉢に行かない時間にアナータピンディカ長者の家に行き、門のところに立ちました。しかし、あまりにも時間が早いので、長者の家の人々は比丘が門のところで立っていることに気づきませんでした。比丘は、アナータピンディカ長者のところをあきらめて、ヴィサーカー夫人の家に行くことにしました。けれども、ヴィサーカー夫人の家でもまだ朝食のお布施の準備はできておらず、かの比丘は何も得ることができませんでした。

田舎の比丘は、サーヴァッティーの街をあちこち歩き、再びアナータピンディカ家の門口に立ちました。ところが、その時にはアナータピンディカ家の朝食のお布施は終わっていました。次に彼は、ヴィサーカー夫人のところに行きましたが、そちらでも朝食のお布施は終わってしまっていたのです。

比丘は、また他の場所をうろうろしてから再びアナータピンディカ長者のところに来ました。しかし、その時は、昼食のお布施は終了してしまっていました。ヴィサーカー夫人のところも同様でした。

田舎から出てきた比丘は祇園精舎に戻り、「こちらの比丘たちは、あの二人こそは、信仰心の篤い、清らかな心の持ち主だと言っている。しかし、アナータピンディカ長者もヴィサーカー夫人も、信仰心もないし、清らかな心もない」と言い歩きました。

法話堂で比丘たちが、「友よ、あの田舎から出てきた比丘は、自分が時間はずれな時に托鉢に行ったのに、アナータピンディカ長者とヴィサーカー夫人のことをけなしている」と話していました。

お釈迦さまが来られて比丘たちの話題をお訊きになり、比丘たちが申し上げると、お釈迦さまは田舎の比丘を呼んで、その話が事実かどうかおたずねになりました。

比丘が、「尊師、その通りでございます」と応えると、釈尊は、「比丘よ、君はなぜ供養が受けられなかったことを怒るのか?過去において、まだ仏陀が世の中に現れていない時でさえ、出家者は、家の門口に立っているにもかかわらず何の供養も得られなくても、怒りを覚えることはなかったのだよ」と言われ、過去の話をされました。

昔々、バーラーナシーでブラフマダッタ王が国を治めていた頃、菩薩はバラモンの家に生まれました。成人した菩薩はタッカシラーに行ってあらゆる学芸を学び、学業を終えてから出家して、ヒマラヤに住む行者になりました。

長い間、ヒマラヤに住んだ菩薩は、ある時、塩と酸味のある食物を得るために、山を下りてバーラーナシーにやって来て、城の御苑で泊まりました。

その頃、バーラーナシーに、信仰心が篤くて心が清らかな長者が住んでいました。

翌日、托鉢のために都に入った菩薩が、「信仰心の篤い方の家はどちらでしょうか?」とたずねたところ、街の人々からその長者の家を教えられました。

菩薩は長者の家の門口に立ちました。しかし、ちょうどその時、長者は王に会うためにお城に行って留守でした。家の者も行者が門のところに立っていることに気づかず、菩薩はしばらくしてからそこを立ち去りました。

菩薩が歩いていると、お城から戻ってくる長者と出会いました。長者は、菩薩に礼拝し、托鉢の鉢を受け取って家に案内しました。長者は菩薩の足を洗い、席に案内して、様々な食事をたっぷりと供養し、先ほど菩薩が長者の家に来たのに何も得られず、そこを立ち去っていたことを知りました。

食事が終わると、長者は菩薩の傍らに座り、「尊師、私の家に来た方は、乞食であれ、正しい道を歩まれる沙門、バラモンであれ、必ず敬意をもって供養を受けるのです。今日は、私の家の者があなたに気づかず、席にお通しすることもなく、食事も飲み物も差し上げませんでした。あなたが何も供養を受けずに私の家を立ち去られたことは、私どもの手落ちです。どうぞお許し下さい」と言って、次の詩句を唱えました。

われら汝に座を用意せず
食事も飲み物も供養せず
こは われらの過ちなり
梵行者よ、われらを許せ

菩薩は、次の詩句で、それに応えました。

われには恨みも怒りも起こらず
不快な気持ちも起こらず
されどこの家には供養の
習慣なしと われは思えり

そこで長者は、次の詩句を唱えました。

座と、足洗う水と、足用の油など
それら全てを用意する
こは わが家の
先祖伝来のならいなり

最上の親戚に供える如く、
人々を供養することは
こは わが家の
先祖伝来のならいなり

菩薩は、数日間、バーラーナシーの長者の家に滞在して長者のために法を説き、その後ヒマラヤの庵に戻り、神通力と禅定を得た仙人となりました。

お釈迦さまは過去の話を終えられて、四つの真理(四聖諦)について法を説かれました。それを聞いた田舎から来た比丘は、預流果の悟りを得ました。

お釈迦さまは、「その時のバーラーナシーの長者はアーナンダであり、ヒマラヤに住む行者は私だった」と言われ、話を終えられました。

スマナサーラ長老のコメント

この物語の教訓

このエピソードは、インド文化の客に対するもてなしの習慣と、出家比丘たちの托鉢習慣を合わせて、托鉢に出る比丘の心構えを紹介しているのです。

●客
客を大事にすることは、昔からも守られているインド文化の一つの習慣です。仏典でも、客を大事にすることが善い行いとして説かれています。信仰する宗教に関係なく、この習慣は誰でも実行してきたのです。ヒンドゥー教には、客とは神が人間に化身して自分の門の前に現れることだ、とする言い伝えがあるのです。客がどれほど大切にされたのか、ということがこの言葉で分かります。

昔の社会は、村々がそれぞれ孤立して閉ざされた共同体をつくっていました。そこに現れる客は、村人たちが知らない外部の世界の情報や知識を伝えてくれる、大切な存在だったのです。閉ざされた社会は徐々に淀んでいくので、繁栄しないのです。しかし、村や部族、民族の社会では一人ひとりが共同体の中で役割を担っていたので、そこを抜けだして外に出ることも難しかったのです。この閉鎖した社会に客が入ると、客に接待すること、その人と話をすることで、社会が活性化して元気になったのです。

国々、村々を訪ね歩く旅人には、あまり自分の家、自分の国、という感覚がないのです。ですから客に、どこから来たのか、どんな国の人なのか、どんな民族なのか、などを尋ねても、納得のいく答えは帰ってこないのです。これが、「客は神である」と信仰されるようになった原因かもしれません。客は「お世話になりました」などの感謝の言葉を述べないのは普通です。その代わりに、接待した村の人々に「繁栄しますように、病から身を護られますように、長生きできますように、子宝に恵まれますように」等の祝福の言葉を述べるのです。

普通は客の身元は判らないのです。旅人として、接待を受けることで生計を立てる人々もいたようです。しかしこれは問題にしていないのです。客なら誰でも、どこへ行っても訪ねたところの人々の接待を受けるのです。客を接待することで、自分の信仰している神が大喜びするのだという信仰があったので、豊かな人々は、客の接待は自分の家の伝統的な習慣として考えていたのです。


●托鉢者

旅人は基本的には一人ですが、二三人のグループで旅する場合もあります。ひとつの集団・グループとして旅したのは、宗教家なのです。ジャイナ教と仏教は旅する宗教です。旅をする宗教は他にもあったのです。宗教家が旅する場合は、弟子たちのグループと一緒になるのです。突然、ある村に五十人程度の宗教家のグループが入っても、その村人にとっては接待することが負担になってしまうのです。ですから、宗教家は自分たちをあえて客としては扱って貰わないようにしたのです。代わりに、托鉢する習慣を作ったのです。托鉢とは、一人ひとりの宗教家が鉢を持って家の門口に少々の時間、無言で立っていることです。家の人々は、何かあげるものがあれば、自発的にあげてもよいのです。何もあげないことにすることもできるのです。托鉢とは、グループで旅する宗教家たちが、一時的にホストになる村人に迷惑をかけないようにと考慮した習慣なのです。

ジャイナ教、仏教以外の宗教家たちは、くれるものは何でも受け取るのです。これが村人に負担になるので、仏教とジャイナ教は、料理をしたもの、家の人が食べて残ったもの、などを受けることにしたのです。仏弟子の場合は、托鉢として生の穀物、生きている動物、生肉、生魚、金品などを施しされても、受け取らないのです。断るのです。料理されたものは、その日のうちに悪くなるので、捨てなくてはいけない。比丘が受ける托鉢は、受けても受けなくても在家が捨ててしまうものなのです。ですから、比丘たちの托鉢は当時のインド社会の人々に、何の負担もなかったのです。バラモン教の行者たちも托鉢をしたが、彼らは何でも受けたのです。山羊、牛、羊だけではなく、召使として人間までお布施としてもらったのです。

托鉢は生計として何の立場もない、最底辺の生き方であることをしっかり覚えておきなさい、というのがお釈迦様の言葉です。物乞いに似た生計なので、物乞いの生き方ではなく、優れた聖者の生き方になるようにと、気をつけなくてはいけないのです。


●物乞いにならないために

無我の気持ちで門口に立つ。家の人の顔を見ない。長い時間立って待たない。しかし、家の人々が何かを用意している気配があったら、少々の時間は待つ。「托鉢に伺いました」などの言葉は絶対にかけない。無言で立つのです。在家がお布施をしたならば、祝福の言葉をかける。托鉢中、慈悲の冥想か、自分が習っている他の冥想をし続ける。家や人やカーストや職業などを選ばず、順番で家々を尋ねる。いただくものの善し悪しを気にしない。しかし、禁止されている品物を断る。一食分しか受け取らない。もし自分が受けたお布施を仲間の比丘たちにも分けてあげるならば、一食分より多く受け取っても構わない。自分が受けたお布施の一部をかならず他の同業者にも分けてあげる。このような規則はたくさんあります。

美味しい物をもらったら喜んだり、不味いものをもらったら嫌になったりするような卑しい性格は、断言的に禁止なのです。覚りに達していない比丘には厳しいかも知れませんが、托鉢中、いかに冷静に感情が沸き上がらない心で続けられるのか、ということは、その比丘の挑戦です。今回のジャータカ物語で扱っている問題は、托鉢に出かけるべき適切な時間の問題です。早く行ったり遅く行ったりすることは、在家にとってはたいへんな負担なのです。在家にも畑仕事や商売などがあるのです。それに邪魔してはならないのです。しかしお釈迦様も、けっこう朝早く托鉢に出るのです。その場合は、門口に立つのではなく、人々と対話しているのです。水を汲む人、労働する人、社会の底辺の人々にとっては、お釈迦様にあいさつして何か話を聞くチャンスなのです。托鉢は表面的に見えるほど楽は行ではありません。精神的に、特に厳しい修行なのです。